見出し画像

【読書感想文的エッセイ】神様みたいに良い人3

 逸脱にはなれている———なんと力強く、そして寂しい言葉だろうか。これが普通ではない者の言葉なのか。いや、そうではない。少なくとも当時、『人間失格』を読んだ当時、ぼくはわたしのことなど何も知らなかった。それに愛着不安があるからといって、自己憐憫に陥るのはちょっとダサい。なんとなく分かっていた。分かっていたことに、名前がついただけだ。

 逸脱にはなれている———普通じゃいられない。普通がわからない。分からないものにはなれない。ぼくにとっては簡単な話なんだけど、周りの人でそれに共感してくれる人はほとんどいなかった。演劇部の人たちだけは、ちゃんと受け止めてくれた。一度、顧問の先生に当て書き—演じる役者を先に決めて、キャラクター像を設定すること—をもらったことがある。かなり、というかめちゃくちゃに偏屈な人間だった。先生曰く「かなり風音っぽい」らしかった。先生には、ぼくはこんな風に見えているのかとショックを受けたが、今思えば、かなり正確だったと思う。先生はなんでもお見通しなのだ。ちなみにそのキャラクターは常に合理的に考える人で、人間関係を築くのは時間の無駄、ずっと勉強だけやってきた人間で、まるで高校時代の中田敦彦のようなキャラクターだった。作中では予算の無駄遣いだと言って、市民劇団を潰そうする市長だった。演劇は金と時間の無駄。そんなことに惚けていられる奴の考えが分からない。堅物、石頭、絵にかいた近代人。彼は今までどんな人生を送ってきたのだろう。

 逸脱にはなれている―――大庭葉蔵は人を信じたくても、最後まで信じ抜くことができなかった。『人間失格』作中に「対義語ゲーム」に興じるシーンがある。「罪」の対義語はなんだろう? 「罰」じゃないか? 明確な答えを出せないままに、この遊びは終わってしまう。その直後である! ヨシ子が襲われた。ああ、信じることは罪なりや。これが答えではないか。罪と信頼。罪が罪でなくなるとき—法的な意味ではなく、道徳的な意味で—、それは「わたしにとってあなたは罪人ではない」という究極の信頼ではないのか。「罰」は「おまえは罪を犯した」という一言から始まる。となれば、信頼こそが唯一の道ではないだろうか。つまり、罪を受け入れる、逸脱を受け入れる、だってあなたは何も悪くないもの。

 逸脱にはなれている———道徳的な罪とはなんだろうか。わたしにはよく分からない。だけど最近、自覚的な仏教徒にとなりつつあるわたしにとって、原罪とは、他の命を食べること、他の命をいただくことでしか自分の命を繋げられないこと、だと思っている。じゃあ現在は? 自分がコロナに感染しているかもしれないという意識ではないか。いや、ワクチンが普及した今、そんな意識を持っている人は以前より少ないのかもしれない。しかし、思い出してほしい。自分が感染したときの周りの反応を、後遺症を、そして自粛警察を。まるで犯罪者のように白い目で見られ、罰として残る後遺症、少しの逸脱も許さない相互監視社会の成立! これが原罪と言わず、いったいなんであろうか。なぜ、自分だけが普通でいられると思うのか。誰しもが逸脱からは逃げられない。それが原罪だ。わたしもあなたの罪を犯している。でもお互いに信じあって生きましょう。それが人間の資格というものでしょ。

 逸脱にはなれている———人狼ゲームとはよくできたゲームだと思う。中世ヨーロッパ的な世界観の村に「人狼」という怪物が紛れている。それは、人に化け、夜な夜な村人を襲う。狩人や占い師、霊媒師らの力を借りて、人狼を炙り出すというゲームだ。中世ヨーロッパは一般的にキリスト教が絶対的な力を持っていたとされるが、それはあくまでも一面的な理解に留まっているように思う。なぜなら、恐怖の対象として信じられた怪物そのものがアンチキリスト的、つまり異教のもの—ケルトやゲルマンの民間信仰—だからだ。教会が支配していたとはいえ、民間レベルで見るとまずまずの普及率であった。だからカトリックは民衆を取り込むために、ある程度の宥和策を取った。ゴシック建築を見るとよく分かるが、そこには明らかに異教的な意匠が施されている。キリスト教の支配は厳格なイメージがあるが、カトリックはそうでもなかった。魔女狩りといった例もあるため、一概には言えないのだが、プロテスタントと比べて、緩い宗教だったという緩い理解でいいと思う。一方で、プロテスタントは宗教というより、厳格な自己啓発に近い印象をわたしは持っている。信仰の対象は聖書であり、教会ではない。だからカトリックと比べて、個人主義が推し進められた。自律しなさい、ということだ。その結果、人々には自己監視の目が育った。常に自分の内面を監視し、「悪」は内側に押し込められた。だから人狼ゲームは、中世ヨーロッパ的な世界観を演出しながらも、そこに登場する人間たちのメンタリティーは非常に近代的—プロテスタント的—と言える。中世ヨーロッパは、決して自由ではなかったかもしれないが、もっと奔放だったはずだ。人狼ゲームはそれを近代風に見事にアレンジして見せた。もっとみんな人狼ゲームをやればいい。そしたら、現実で誰かを吊り上げることには飽きるだろうから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?