暴飲暴食の日💦 生野区コリアタウンでパッピンス、ヤンニョムチキン〜梅田阪急で聘珍樓中華弁当、甘味こより 抹茶かき氷、濃桃プリン😃 BINDUでインドカレー、チャイ〜田中屋 有磯せんべい、カニビーバーと黒ラベル! 仁徳天皇と百済からの渡来人!
◼️暴飲暴食の日。 梅田と生野区のコリアタウンを訪問😃
梅田のグランフロントにタイ料理を食べにいくと満員だったのでグランドビル30階 BINDUでインドカレー💦
生野コリアタウン御幸通り商店街で、サムジャン(サンチュ味噌)と白菜キムチ、ヤンニョムチキン購入。
生野区の御幸通り商店街のカフェ・ギャルソンでフルーツ・パッピンスとレモンソーダ🍋
梅田阪急百貨店9Fの甘味こよりで抹茶かき氷食す、地下で聘珍樓の中華弁当とモロゾフ濃桃プリン購入。
福島県の有磯せんべい、金沢市のカニビーバー、サッポロ黒ラベル
◼️生野コリアタウン(いくのコリアタウン)
大阪市生野区桃谷および鶴橋にある総称「御幸通商店街」3つの商店街(『御幸通商店街』、『御幸通中央商店会』、『御幸通東商店会』)とその周辺の通称。
「大阪生野コリアタウン」とも呼ばれ、2021年には上記3つの商店街で構成された「一般社団法人大阪コリアタウン」の名称ともなっている。
◼️朝。長野県アップルシナモンバタートースト
◼️昼。梅田グランドビル30階 インドカレー BINDUてチキンカレーとチャイ
◼️JR大阪からJR鶴橋駅。鶴橋駅から御幸通り商店街へ
◼️生野区コリアタウン 御幸通り商店街の百済門
◼️眞味食品で白菜キムチとヤンニョムチキン購入
🔹平野川
◼️御幸森天神宮
御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)は、大阪市生野区(旧摂津国東生郡猪飼野村)にある神社。仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命を祀る、猪飼野村の氏神。
御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる古代の港があったことに由来する。
猪甘津は日本書紀仁徳天皇14年の条に記され、猪甘部(いかいべ)と呼ばれる官職を務める者が住んでいた。
猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていた。また付近は百済野と呼ばれ百済からの渡来人が多く住んでいた。水鳥が集まる景勝地であったとも伝えられている。
伝承によれば、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる。
仁徳天皇崩御の後の反正天皇2年(406年)、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸宮と称されたと伝えられている。
嘉祥3年(850年)頃、疫病が流行したために当宮の社僧大蔵院行綱が京都五條天神社に参籠し、同社の祭神である少彦名命のご神霊を勧請したところ、疫病が治まったという。この頃から天皇天神社とも天神宮とも呼ばれるようになる。
玉造清水谷付近に忍坂彦命を奉祀する社があったが、大坂夏の陣の兵火によって消失した。それを畏憚した大坂城主の松平忠明が当宮にご神霊を奉遷するように命じると共に、旧平野川中洲の地3,000歩と灯明台1基を寄進する。
2006年(平成18年)には創祀1,600年祭を斎行し、社殿の屋根の葺き替えを行っている。
境内は生野コリアタウンに接している。
🔹大仙陵(仁徳天皇陵)と御幸森天神宮
🔹出雲口伝が明かす応神天皇と仁徳天皇の正体とは? 高松市庵治町の皇子神社 船祭りの”だんじり”の意味と祭神ウジノワキイラツコ (応神天皇の皇子)の政権交代の秘密とは?
◼️鶴橋本通り商店街
◼️御幸通り商店街のカフェ・ギャルソン
◼️Ni kDas
◼️パッピンス
◼️サムジャン(サンチュ味噌)。御幸森天神宮すぐ近くにある店で購入😃
◼️白菜キムチ
◼️ヤンニョムチキン
◼️阪急百貨店9階 甘味こよりの抹茶かき氷とどら焼き
◼️聘珍樓の中華弁当、サムジャン(サンチュ味噌)もろきゅう、白菜キムチ豆腐
🔹株式会社 聘珍樓(へいちんろう)
神奈川県横浜市の横浜中華街に本店を置く中国料理店。1884年創業。聘珍樓の「のれん」は、張家二代、鮑家二代、龐柱琛、林康弘と続き現代表取締役の林衛で七代目。
横浜中華街にある横浜本店は移転のため2022年(令和4年)5月15日から一時閉店となっていたが、店舗を運営していた(株)聘珍樓(横浜市中区)が2022年6月2日、横浜地裁より破産開始決定を受けた。
横濱本店以外の店舗(日比谷・吉祥寺・大阪・小倉等)は、別法人の(株)聘珍樓(横浜市港北区)が運営。
◼️カニビーバー (金沢市生産)
◼️田中屋の有磯せんべい (福島県)
◼️モロゾフの濃もものプリン
◼️生野コリアタウン
歴史
上町台地の東側の緩傾斜面一帯、現在の天王寺区東部および生野区西部は古代から百済野(くだらの)と呼ばれ、660年多数の百済国人が移り住んだ地のひとつとされる。
奈良時代から平安時代にかけては、摂津国東成郡・住吉郡のそれぞれ一部を割いて百済郡が設置されており、現在の生野コリアタウンの辺りも百済郡比定地のうちに含まれる。
百済野の北端には、まだ河内湖が残っていた時代に猪甘津(いかいつ)という港湾があり、西風に起因する高波を上町台地が防いでくれる良港として重宝されていた。
『日本書紀』仁徳天皇14年冬11月条に「猪甘津に橋をわたして、小橋(おばせ)と名付けた」旨の記載があり、朝鮮半島との交流が盛んだった古墳時代、かつ、上町台地上に仁徳天皇の皇居(難波高津宮)が置かれていた時代の猪甘津には、百済滅亡以前からの渡来人の存在も示唆されている。
なお、猪甘津野から転じた地名が猪飼野である。
日韓併合以降の戦前の形成
1910年の日韓併合を経て、1922年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航した。これを機に多くの朝鮮民族(大半は済州島出身者)が労働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となった。
大大阪時代における近郊農村の急速な都市化・工業化により、猪飼野周辺は昭和に入る頃には中小企業の密集地帯となっていた。
なお、猪飼野が属した東成郡鶴橋町は1925年に大阪市へ編入されている。職住が揃った猪飼野には自然と朝鮮市場が誕生し、それを核に商店街としてスタートしたのもこの頃である。
戦後
1945年の日本の敗戦後、朝鮮半島は独立で日本ではなくなったため、戦前渡航者の約3分の2は済州島に帰った。しかし、1948年に起きた済州島四・三事件以降に再び多くの済州島出身者が日本へ渡航してきた。
事件の凄惨さと独立後の朝鮮半島への失望から日本での生活を懐古したり、日本に残った親族や知人を羨んで、命がけで日本海を渡り密入国を図る者が絶えなかった。
特に関西、生野区は朝鮮半島残留者がいた為にそれを上回る数が目指した。
日韓国交正常化以降
このような経緯から、戦前渡航者(朝鮮半島独立後以降の残留者)、済州島四・三事件による密入国者である再航者と事件後入国者、1965年以降の日韓国交正常化以降の移住者に4分されるが、いずれも当地の朝鮮市場を中心に生活し、日本最大の在日韓国・朝鮮人の集住地になった。
日本国民から「外国人が集まる危険な街」だと忌避された時代もあったが、21世紀に入ると日韓サッカーワールドカップの開催や韓流ブームなどで日本国民も訪れる観光スポットに変貌した[1]。
2021年、観光客の増加から望まれていた公衆トイレが御幸通商店街に作られた。
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