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出雲旧家の伝承「出雲散家の芸と大名」 サンカと忍者、山伏の正体。 サンカ出身の豊臣秀吉、斎藤道三、楠木正成、北条早雲、出雲の阿国。
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。
今週、注文していた「出雲散家の芸と大名」が届きました。
この書籍は、出雲の旧家に伝わる口伝と伝承をもとに書かれた出雲王国の兵士だった出雲散家(サンカ)についての歴史書です。
作者の方は、「富當雄」(とみまさお)氏、斎木雲州氏の家系の方で、「出雲王国とヤマト政権」も書かれています。
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「出雲散家の芸と大名」の内容
第一章 イズモ兵と出雲散家
出雲王国とイズモ兵
富宿祢のヤマト移動
出雲出身の関東国造たち
出雲散家の諜報活動
第二章 悪党と呼ばれた楠木正成
役行者と山武士
悪党・楠木正成の活躍
湊川合戦での奮戦
第三章 能の観阿弥・世阿弥
一遍上人と踊り念仏
出雲散家の観阿弥・世阿弥
観阿弥・世阿弥による能の大成
第四章 出雲散家出身の戦国大名
戦国時代の出雲散家
北条早雲の小田原奪取
美濃のマムシ・斎藤道三
サルと呼ばれた豊臣秀吉
第五章 出雲忍者の活躍
伊賀忍者と甲賀忍者
柳生宗矩と諜報活動
真田一族と山家神社
雑賀衆と根来寺
第六章 出雲阿国と歌舞伎踊り
杵築大社の巫女・阿国
鴨川での歌舞伎踊り
阿国と連歌寺
【記事】『魏志和国の都』(勝友彦 著)のウメガイの記述! 出雲王国ではウメガイを製造していた! サンカの起源の一つは出雲散家の忍者だった! 出口王仁三郎(上田喜三郎)と上田サンカとアヤタチ! 円山応挙(上田主水)!
出雲散家とサンカ
「サンカ」と呼ばれる人々は、一般的にセブリというテント小屋に住み、 同じ土地に定住せず移動を繰り返す漂泊の民だった。
その人たちは、箕やザルを作って里人に売ったり、ウメガイという両刃の短刀やテンジンという自在鉤(ジゾイカギ)を持ち、それらを身分の証としていた。それ以外にも日本各地に住み着いて土地を持ち、一般の人に近い生活をする人たちもいた。
彼らの生活の実態は不明な点が多く、長い間謎とされてきた。一般的な住民とは異なる生活を行っていた者もいた。
しかし出雲の旧家の伝承によれば、彼らは日本の最初の広域統一王国・出雲王国の兵士や関係者であった。彼らは、出雲から 各国に散った者たちであったため、この書籍ではサンカを「出雲散家」 という名称で呼んでいる。
出雲散家とは
紀元前660年頃に成立した出雲王国の兵士
日本最初の広域統一王国・出雲王国の兵士と関係者が後にサンカとなった。
3世紀の出雲王国の滅亡後、出雲から各地に散り、サンカとなった。
出雲王国の兵士 = 出雲忍者 → 出雲王国滅亡後、各地に散り出雲散家 (サンカ)となった。
出雲散家の特徴
日本の歴史の裏で働き、表舞台を支えた。
時には自身も表舞台に立ち、歴史に貢献した。
素性を隠していたため、功績が認識されていないことが多い。
出雲散家(出雲忍者)は諜報活動をしていたため、記録が残りにくい。
出雲兵士が出雲忍者であり、出雲忍者の忍術が伊賀忍者と甲賀忍者の忍術の元となっている。
芸能者、戦士として活躍し、歴史を動かしてきた。
現代の日本人は彼らの恩恵を受けているが、その功績を知らない。
行動規範は、
自分の行いに厳しく、常に考えて工夫し、率先して行動する。
他人、特に弱者に優しく接し、チームワークを大事にする。
紀元前: 出雲王国の兵士 = 出雲忍者 → 3世紀、出雲王国の滅亡後、各地に散り出雲散家 → サンカ
出雲散家出身の人たち
楠木正成
観阿弥 世阿弥
豊臣秀吉
北条早雲
斎藤道三
歌舞伎の創始者 出雲の阿国
修験道と出雲散家の関係
修験道
出雲散家の忍びの技が取り入れられ、発展した。
山で培われた薬草の知識も取り入れられた。
出雲王国のサルタ彦大神と修験者が結びつき、鼻高天狗のイメージが生まれた。
開祖は役小角で、神変大菩薩の諡号を贈られた。
出雲族由来の系統以外に、仏教僧侶が弟子となる系統も生まれた。
空海ゆかりの真言宗の系統や、ユダヤ系の習慣を持つ羽黒山の系統があった。
秦族もユダヤ人の末裔と言われ、その習慣が修験道に取り入れられたと考えられる。
羽黒山系の修験者はユダヤ系の格好をしている。
出雲散家由来の修験者
出雲族由来の修験者は麻の衣を着ていた。
平安時代以降、合戦時に山武士(山伏)として参加するようになった。
山武士は規律が厳しく、親分の命に背く者は処罰された。
合戦では両者につき、勝ち負けが読めた段階で、有利な側に移動し、勝利すると恩賞をもらえた。
修験道は、出雲散家の忍びの技や薬草の知識を取り入れ、発展しました。出雲散家は、修験者として活動する一方で、合戦時には山武士として参加し、戦局に応じて有利な側に付くことで利益を得ていました。修験道には、出雲族由来の系統以外にも、仏教やユダヤ教の影響を受けた多様な系統が存在しました。
●出雲族由来の修験道は発展していったが、 それ以外に、仏教の僧侶の一部が弟子として集まる系統もで き始めた。その一つは四国遍路を始めた空海ゆかりの真言宗の系統だった。空海は高野山で即身成仏を遂げたと言われてお り、その伝統を受け継いで湯殿山(山形県)周辺で木喰行(もくじきぎょう)(断食行)をおこなう一世(いっせ)行人たちがいた。この影響で、湯殿山の周辺には即身仏 (ミイラ) 寺が多く存在する。
・湯殿山大日坊の即身仏
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もう一つの系統は出羽三山の羽黒山(山形県)にあり、ユダヤ系の習慣を持っていた。前3世紀に中国より渡来した徐福は、ユダヤ人の末裔の斉国の王族であったと言われている。
それ以外に、応神大君の時代に渡来した秦族も、ユダヤ人の末裔であったと言われている。それらの人々が持ち込ん だユダヤ人の習慣が、修験道にも取り入れられたものと考えられる。羽黒山系の修験者の服装は羽織袴で、胸に玉飾りの ついた帯をたらし、頭にユダヤ系の黒い小さい冠を付けている。
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ユダヤ人のヒラクリティー
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・埴輪とユダヤ人
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日本を裏で守っている出雲系のカモ一族
紀元前2世紀ごろ、出雲王国の主王 ヤチホコ(大国主)と副王 スクナヒコ(事代主)が、秦からからやって来た徐福の策略により、ホヒとタケヒナドリ親子、そして海童(秦の子供達)により、囚われられ枯死させられた。それらの二つの場所は判明している。
この痛ましい出来事の為、徐福一団と住むことに嫌気がさした事代主の息子 クシヒカタの一団は出雲王国を去り、現在の奈良県御所市に移動した。
出雲から御所市に移動して住んだのが、鴨都波神社だった。そこでは、彼らのことをカモと呼んだ。カモはカミ(神)に由来する。
クシヒカタの葛城への移住後、大国主の子のアジスキタカヒコもクシヒカタを頼って葛城へやって来た。
その後、丹後から徐福の孫であるアメノムラクモ(父はアマノカゴヤマ、宮津の籠神社の祖)も奈良へ移り住んできて初代大王(初代天皇)となった。記紀に登場する神武天皇は存在しない。
ナガスネヒコは、出雲一族の大彦のことで伊賀を経て長野へ逃れた。
やがて第二次物部一族の東征により、3世紀に出雲王国は滅びた。
カモ族は、鴨都波神社から京都へ移り、下鴨神社、上賀茂神社周辺に移り住んだ。
下鴨神社も上賀茂神社の祭神は、出雲にルーツを持つ国津神である。
この京都のカモ一族が日本国を影ながら守っている。
・クシヒカタ
・アジスキタカヒコ
高鴨神社 宮司のインタビュー
賀茂氏
賀茂役君小角(役行者) 修験道の祖
賀茂吉備麻呂
賀茂忠行 安倍晴明の師匠
賀茂保憲
慶滋保胤
賀茂光栄
賀茂真淵
・役氏出自の役の行者(役小角)
役氏(えんうじ)、役君(えん の きみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で、葛城流賀茂氏から出た氏族
・テキサス州のキンベル美術館にある役行者の像
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・島根県にある神魂(カモス)神社と熊野大社
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・御所(ゴセ)市の鴨都波神社と下鴨神社
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・下鴨神社、出雲路、幸神社、京都御所。下鴨神社内には八咫烏を祀る河合神社がある。
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・サンカの大親分が住んだ綾部市にある山家駅
出雲王国 副王の少名彦がイズモ兵を組織した。イズモ兵が忍者の祖。第二次 物部東征による出雲王国の3世紀の滅亡後、各地に散った出雲兵士が、サンカとなった。
出雲散家は、その後も事代主の子孫である富家が指揮し情報収集を行なっていた。丹波は出雲忍者の集団移住地だった。京都府綾部市のJR山家駅近くに大親分のアヤタチの広い屋敷があり、出雲忍者が訓練を行なっていた。
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出雲族が紀元前2世紀ごろ奈良に移り住んだ痕跡
ヤマト王権に従わなかった古代豪族 土蜘蛛の正体とは? 鬼、蝦夷、毛人、熊襲、隼人、温羅、名草戸畔、出雲族! 葛城一言主神社の蜘蛛塚と高天彦神社近くにある蜘蛛窟とは?
土蜘蛛の墓がある御所市の高天彦神社と一言主神社
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三輪山周辺に住んだ痕跡: 桜井市出雲の十二柱神社とダンノダイラの磐座(いわくら)
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出雲族が、三輪山を遥拝した鳥見山、出雲屋敷があった狭井(さい)神社周辺。 大神神社の祭神 大物主命は出雲王国 第八代副王 スクナヒコ 事代主を指す。
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鴨都波遺跡
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1.葛城の曙
南葛城の古墳時代を語る上で、その前史としての鴨都波遺跡の存在は極めて大きい。鴨都波遺跡は弥生時代において南葛城地域最大の拠点的集落であり、その存続期間は弥生時代前期から古墳時代後期に至る長期間にわたるもので、継続的に集落が形成されている。12次調査では農耕に関わる施設としての護岸水路や集水マス等が発見され周辺での生産域の存在が予測されている。古墳時代では15次調査で20×16mの小規模な方墳(鴨都波1号墳)が調査され、三角縁神獣鏡4面を初めとする数多くの副葬品が出土した。同時に当該期の集落も明らかになっており両者の密接な関係が考えられる。古墳時代前期に於いて正に鴨都波の地から誕生した当地域を代表する勢力の構成員であったと見られる。
2.葛城の首長と居館
5世紀前葉に南葛城地域に突如として出現する前方後円墳、室宮山古墳は全長238mを測る当該地域最大の古墳である。主体部は南北2つの竪穴式石室で南石室には壮大な長持形石棺が納められ、正に王の墓に相応しいものである。近年急速に進展した金剛山東麓地域の発掘調査は古墳時代中期の遺跡に関し新たに様々な発見を生んだ。南郷大東遺跡の導水施設の発見や、南郷安田遺跡の大規模な掘立柱建物の検出、更に極楽寺ヒビキ遺跡濠の内側に柵や塀に囲まれた特殊な板状柱構造の大型掘立柱建物等、これらは渡来系文物を出土する技術者集団の集落と共に南葛城を代表する遺跡になっている。これらの遺跡群は室宮山古墳を含めて全て有機的に関連し、葛城地域史を構成するものである。
極楽寺ヒビキ遺跡
極楽寺ヒビキ遺跡は金剛山の東麓から東に向かって延びる尾根上平坦面を最大限に利用して営まれている。葺石を施した濠に区画された中に板柱大型掘立柱建物と柵等が規則的に配置されている。遺跡からは大和盆地を一望でき、天気の良い日には、畝傍山は勿論、遙かに奈良市内の若草山を望むことが出来る。
※弥生時代
日本列島における時代区分の一つであり、「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代」とされる。
年代としては紀元前10世紀あるいは紀元前9-8世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる。
採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。
弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立した。
一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされるが、古墳時代の開始年代には異論もある。
・出雲散家の芸と大名: サンカの正体
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出雲王国と天皇
出雲王家の口伝書「出雲王国とヤマト政権」に記される古事記とは違う日本の歴史とは? 大和の支配者側でなく出雲王家側から見た隠された日本史! ヤマトの初代大王は徐福と出雲王家の血を引くアメノムラクモだった!
モリヨシナリのプロフィール
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
アメリカ: 2年
シンガポール: 2年
中国: 12年
ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
Bizconsul Office 代表
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
観光庁インバウンド研修認定講師
四国遍路通訳ガイド協会 会員
トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
メディア実績:
香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他) コンサルタント
香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官
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