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20 笑顔は「なるもの」ではなく「なってしまうもの」

私は小さい頃よく母に「笑って笑って」と言われました。おそらくよく泣いたり怒ったりしていたのでしょう。なぜか笑っている自分は覚えていないのに、泣いたり怒ったりしていた自分を覚えています。母はその度に「笑ってるといいことがあるよ」とか「笑ってる方が可愛いよ」などと私に言い聞かせていました。私は泣いたり怒ったりするより、笑っていることの方が良いことで、親からも喜ばれることだと学んだのは確かです。

特に母は私が小学生の時には新興宗教にのめり込み、教えである感謝の言葉や笑いの大切さを私に説き続け、私が高校生になった頃には、心理カウンセラーとして働いていたので、精神医学や心理学の観点からも笑顔や感謝の大切さについて話していました。今思えば、母は私に教えながら自分に言い聞かせてたのだとは思いますが、私は素直に自分に向けられた親の教えとして受け取っていました。

確かに親に教えられた通り笑顔でいると、誰とでも仲良くなれましたし、多くの人から気に入られるのは事実で、友達作りや仕事の人間関係で苦労したことはありません。精神世界に興味を持って本を読めば、そこにも感謝や笑顔の大切さが書かれており、自分の人生経験の裏付けもあって、いつの間にか笑顔信者となっていたと思います。

気づけば、私はいつも笑っていました。いつも笑っているなんて聞こえはいいですが、特に楽しくて笑っていたわけでもなく、喜ばれて得をするための社会を渡り歩くツールとして笑顔を使っていたと言った方が良いでしょう。「笑顔」とは「作るもの」だと思っていました。でも私だけではなく社会全体が笑顔をもてはやしていると思っていました。

そして笑顔の重要性を性根に叩き込んだ私は、いつどんな時でも笑顔でいることを心がけ、いつからか怒りや悲しみはもちろん、寂しさを感じる時でさえ、それらの感情を心の奥に閉じ込め顔は笑顔でした。感情的に怒ってしまおうものなら自己嫌悪に陥ったものです。

でもあの日、私は笑顔を失いました。今までどんなに嫌なことや怖いこと、辛いことがあっても笑顔で乗り切ってきましたが、娘が救急車で運ばれたと学校から知らせを受けた瞬間から私の笑顔は消えました。

娘が亡くなり、引きこもりを決め込んだ私に笑顔はもう必要ありませんでした。息をしているのが精一杯で笑顔を作る余裕もありませんし、絶望の底からこの先社会に復活することすら考えられません。それに笑顔でいたのは相手に好かれるためです。全世界の人から嫌われてしまいたいくらいなのに、笑顔など願われてもしたくありませんでした。

そして、どうにか生きていく為にも、無理をしないように生きようと決めた私は、無理も我慢もやめて、仏壇に向かって大声をあげて泣き、先に逝ってしまったと怒り、他の娘たちまでも死んでしまったらどうしようと怯え、思ったことをオブラートをかけずに笑顔なしで言い放ちました。自暴自棄になりネガティブ行動のオンパレードでした。

前にも書きましたが、家族は全く変わってしまった私を嫌うどころか、私の感情のままの振る舞いを咎めず、優しく見守ってくれました。そして私は、人の目を気にせず、がんじがらめに縛られていた心の中にあったあらゆる感情を、自分の体の外側に遠慮なく放出していきました。

その時、自分を取り戻しているような自分を改めて見つけたような、自分を生きている感覚がありました。ネガティブな行動をとっているはずなのに、清々しくて、潔い自分を喜んでいる、今までに体験したことのない不思議な感覚でした。

それは例えるなら、友達と学校の先生の悪口を言っている時のような、ちょっとワルな自分を楽しんでしまっている感覚に似ていました。以前なら、感情のままに怒る自分のことを許せず、罪悪感で自己嫌悪に陥っていたと思いますが、罪悪感はもう私にはありませんでした。何より大事なのは、娘たちのためにも生き続けることなのです。ワルになるくらいどうってことありません。

でもそうしているうちに、罪悪感は怒っていたから感じたのではなく、怒った自分のことを責めていたから感じたのだということを、私は体感から理解していきました。なぜなら、怒ったことを責めない、ありのままの自分を許した私には、罪悪感が生まれることはなく、むしろ怒ることで、生きていることを喜んでいる感覚があったからです。

そんなありのままの自分を生き始めた私は、引きこもっていたある日、パソコンで映画を観て笑っている自分に気づきました。暗くなった画面に笑った私の顔が映っていました。いつの間にか笑えるようになっていたのです。しかも誰かに見せるための笑顔ではなく、面白いから自然に笑っていた笑顔でした。泣いたり怒ったりするように、自分の感情を現した笑いでした。

その画面に映った笑顔を見た時、とても優しい気持ちになり、涙が溢れました。娘が自然に笑えるようにしてくれたのだと思いました。もちろんそれまでも自然に笑えていたこともあったと思いますが、笑っている自分にフォーカスを当て、自分が笑っている姿に幸せになる自分を体験したのは始めてでした。

そして気づいたのです。幸せになるために笑わなくても、自然と笑顔になるような幸せがもう既に身の回りに沢山あるのだということを。怒ったり泣いたりしていても、いつでも幸せになれるのでした。むしろ怒りや悲しみを我慢して笑顔で誤魔化して生きることは、自然な笑顔を忘れてしまう程、辛いことだったかもしれません。

怒りや悲しみを我慢するために笑顔になっている時、その笑顔は私自身を傷つけていたのです。本当は怒りや悲しみを感じているのに、その自分を許さず、自分を否定しているからです。本当は怒りたいのに、「怒っちゃだめ」と言われて気持ち良い人がいるでしょうか。不満に思うか、罪悪感を感じるかのどちらかです。まずは怒りを放出させてあげることが大事だったのです。

私は今、無理して笑顔になろうとは思いません。通常無表情で現実に視点を合わせることもありませんので、普段私に声をかける人はあまりいません。だからこそ、それでもわざわざ私に声をかけてくれる人や、私が気になって声をかける人というのは、ご縁がある人であり、私の魂が繋がることを望んでいる人だということがわかるのです。無理をして笑顔を作らない方が、私にとって必要な人と繋がれることを知ったのです。

怒りたい時に怒り、泣きたい時になき、笑いたい時にだけ笑えるようになった私は、自分を正直に生きられているだけで十分幸せで、笑顔を作って幸せになろうとする必要がありません。逆説的ですが、だからこそ幸せでいつも笑顔が溢れるのです。その笑顔は感謝の気持ちが溢れ出ているだけなのです。笑顔も、感謝も、自分自身で生きていることができれば、自然になっているものなのです。

笑顔には沢山いいことがあります。でももしも、心からの笑顔でないのであれば、一度、自分の心の奥に閉じ込められた他の感情を思い切り出してみることをお勧めします。どの感情を出しても許されていることを体験することができた時、無理して笑わなくても、心から笑えますから。


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