39 「良い行いをしたら天国に行ける」の罠
何を隠そう私は、娘が亡くなる前までは、良い子良い妻良い嫁良い母良い友を心がけていた人でした。正しいと教えられたことをこなして、少し無理をしながらでも正義と慈悲を貫いて生きている自分はまんざらでもないと思っていました。誰にも迷惑をかけなかったと思いますし、人が嫌がる地域活動や役員も引き受けたり、慈善活動も積極的に参加して、良い親になろうと本を読み、マナーを習い、友達の相談に乗り、寄付をして、確かに「悪い人」ではなかったと思います。
しかし娘が亡くなった時に私の本性が現れました。「たくさん良いことしてきたのに、こんな仕打ちを受けるなんて、話が違う!」そう思ったのです。苦労しながら頑張ってきたのに、神様に裏切られた気分でした。承認欲求が満たされるくらいの恩恵は受けていましたが、人が見えない場所でも頑張っていたのは、どこかで「良いことをしていれば神様に気に入られる」という計算高い自分がいたからだったのです。
それなのに、わたしにとって最も悲しい出来事が突如降りかかってきたものですから、神様なんて信じた自分を呪い、良い人など目指さずに、愛する娘たちのためだけに生きてやろうと引きこもりを決め込んだわけです。迷惑かけてもいい、世間体悪くてもいい、知らない誰かのためよりも娘たちのために自分が死なないことを優先すると決心したのでした。
でもそれこそが、神の愛というに相応しい体験の始まりでした。神様のために好かれるために生きるのをやめ、自分が愛するモノのため「だけ」に人生を捧げようと思った瞬間から、人生が好転していきました。パジャマに無表情で引きこもって、いわゆる「良いこと」も全くしていないのに、私はどんどん救われ、まるで天国にいるかのように全てを愛だと思えるような生活ができるようになったのです。
「良い行いをしたら天国に行ける」という、どこかで学んだ知恵は、良いことをしていたら地獄を見た私にとっては全くの嘘となりました。そして、この言葉には二つの危険が潜んでいると、今の私は思っています。一見気持ちの良い言葉ですが、私はその罠にまんまと掛かってしまっていました。
一つ目は、「良い行いをしたら」という条件があるということは、良い行いをしていない状態では、自分は天国にいけない存在なのだと思い込んでしまうということです。言葉にはなっていなくても、暗示にかかってしまいます。ありのままの自分には天国に行く価値がないとでもいわんばかりです。親も学校も宗教も、指導する側には都合が良い言葉ですが、無償の愛とは程遠いことに気づきたいものです。
私のように暗示にかかってしまうと、簡単に自己否定してしまいます。でも考えてみたら、もっと〇〇しなくちゃ!と自分を責め、バチが当たると思って自分らしく生きることが怖くなってしまい、どんどん自分を忘れてしまうなんてことを神様が望むはずがないのですよね。そもそも私たちを生み出したのが神なのであれば、もうすでに私たちは完璧なはずなのです。
二つ目は、良いことへの執着は、ネガティブなものを生み出すということです。良いことは、その反対に悪いものがなければ成り立ちません。良いことを目指す限り、その裏側には悪いことが必ずあるのです。例えば挨拶をすることが良いことだとしたら、挨拶をしないことは悪いことになります。自然に自分が気持ちよくなるために挨拶をしているならいいのですが、挨拶をすることが良いことだからと思っている人は、挨拶しない人を「悪い人」と設定してしまうのです。悪い人を生み出しているのは良いことをしている人なのですよね。
また、自分が良い人間であることを証明するためには、良い行いを施す相手が必要になってきます。でもその時、相手を可哀想な人、不運な人だと思って見下しレッテルを貼ってしまっていないでしょうか。それは愛の行為なのでしょうか。
私は自死遺族になってブログを書き始めてから、有料で同じ立場の人の相談に乗っていますが、それを「相手は可哀想な人なのだからお金を取るのはおやめなさい」と言われたことがあります。とても失礼な人だと思いました。この人は、私たち自死遺族のことを可哀想な人で施しが必要な、不足している人だと言っているのと同じだからです。
そう考えるのはその人の自由ですが、そのような考え方の人に、誰かを救うことなどできないと思いました。可哀想な人と言われて、救われる人がいるでしょうか。可哀想な自分を受け入れ、誰かに依存しないと生きていけず、ますます不幸な人生を創ってしまいます。自分らしく生きずに幸せな人などいるでしょうか。
私が有料でご相談に乗っているのは、私が経験から得た知恵と私の時間を差し出す代わりに、ご相談者さんが私にお金を与えることで対等になるからです。単なる売買です。どちらも与え合い、施されている関係になれるからです。お互い悲しい経験をしたけれども、互いに与え合うものがある時、人は救われ生きる希望を見つけるのです。無料で借りを作って依存させようとするなら、それは力を奪う行為です。
私が好きな有名なお釈迦様の話ですが、お釈迦様が托鉢をする修行僧に教えたのは「貧しい家庭からもらいなさい」ということでした。それは、その貧しい家庭に与えられる豊かさがあることを認識させ、それが自ら豊かさを生むきっかけになるからです。幸せを与えられる経験をすることが、なによりも人を幸せにするからです。同時に修行僧の見下しの心を戒めるお釈迦様の教えはさすがだと思います。
良い行いをしようとすることは自由ですが、私は、良いこと悪いことと裁くことなく、大好きな人たちを精一杯愛し、大切な人に協力を求められたら力を貸し、自分が心地よい生き方をするのが一番だと思います。無償の愛とは、全てを許してくれるものです。要するに生きたいように生きていいということです。
存分に楽しく生きたのなら、それは神に感謝しているのと同じ事。それが一番、この世に私たちを産んだ神様が喜ぶことなのではないかと思います。子供の楽しむ姿を見ることが親の一番の幸せであるように。
*Rayより読者の皆様へ*
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