企業とは何か?労働者は企業とどう関わるべきか?
先日、Change maker programといって、株式会社Energize Groupという人事コンサル会社が展開している研修プログラムに参加しました。本研修は、『奇跡の経営』を題材とし、組織マネジメントのあり方について考える事を趣旨としているのですが、本研修を通じて、そもそも企業とは何なのか、労働者と企業の関係はどうあるべきなのかについて改めて考えさせられました。
【ご参考】
『奇跡の経営』(著:リカルド・セムラー)
株式会社Energize Group:
企業とは何か。
辞書の定義は以下です。
営利を目的として、継続的に生産・販売・サービスなどの経済活動を営む組織体
本研修を通じた私なりの企業の定義は以下です。
個々人が自尊心を持った人生を生きる為の乗り物
いきなりですが、トヨタの企業としての存在がこの世の中から消えたらどうなるか想像してみてください。おそらく代替車としてホンダ、日産、マツダなどの車に乗りますよね。パナソニックの場合はどうでしょうか。代替品として、東芝、三菱電機、日立などの電化製品を使いますよね。
では、様々な代替手段・製品がある中、個別の企業が存在する意義はあるのだろうか。世の中を見渡すと、100%オリジナルな製品やサービスは、ほぼないと言っても過言ではないでしょう。物質的、技術的に豊饒な現代社会において、似たような製品・サービスを展開している競合先は、99%の確率でいます。このような条件下、企業が存在する意義は果たしてあるのだろうか。
企業の存在意義には機能的価値と意味的価値という二つの側面があると考えます。機能的価値は、例えば、価格が相対化され、不当な価格を要求できなくなる・競争を通じた経済合理性を追求する営業活動の促進・各社個性の相対化などが挙げられると思います。一方、意味的価値とは、その企業が存在する根源的な意味及び目的です。企業が何の為に、どのようなビジョンを持って、どのような価値を、誰に提供しようとしているのか明確化されて初めて意味的価値を帯びます。
現代は、企業が機能的に存在する意義は薄れつつあり、意味的に存在する価値が問われる時代になったと言えます。このような時代背景を受けて、本研修も立案されたと理解していますが、この意味的価値を個々の人生という観点から意味付けしたものが私の企業の定義です。
人間は社会的動物であり群れを形成しますが、企業も一種の群れです。人間が人間である以上、基本的にどこかしらの群れに属するわけですが、その群れこそが人生の乗り物という事です。
第一に、生まれると共に家族という血縁的群れに誰もが属し、人間が成長すると共に、社会的群れに属する乃至は形成します。そして、社会的群れには利害関係の有無で二つに分かれます。利害関係のない社会的群れは、友人仲間、学校の同級生、コミュニティ/サークル/部活仲間などです。一方、利害関係のある社会的群れは、企業、行政、NPOなどです。多くの人は「労働者」として利害関係のある社会的群れに属すると思いますが、雇用主と労働契約書を締結し、「労働」の対価として賃金を得ます。これは利害関係のある社会的群れ独特の特性ですが、人間の群れである事には変わりないです。
個々の人生に焦点を当てると、多くの人にとって「労働」が人生に随伴すると思いますが、その「労働」を利害関係のある社会的群れ(多くの場合は企業)に提供し、賃金を得ることで生活を経済的に確保します。「労働」といえば、「企業」を多くの人が連想すると思いますが、企業を「乗り物」として捉えてみると、「労働」の捉え方も変わるのではないかと思います。
さて、一年間は何時間あるでしょうか。1日24時間×365日で8,760時間です。では、そのうち仕事をしている時間はどれくらいかというと、残業を入れてせいぜい2,000時間程度です。という事は、私たちが仕事に費やしてる時間は、8,760分の2,000ですから2割ちょっとにしかなりません。(中略)家族や友人は取り替えが利きませんが、仕事は取り替える事ができます。そもそもボリューム的にも2,3割よりも7,8割の方が圧倒的です。人生にとって重要なのは、2,3割の仕事(ワーク)か7,8割の生活(ライフ)かと言えば、考えるまでもなく、7,8割の方に決まっています。だから仕事は「どうでもいいもの」なのです。
引用:出口治明『人生を面白くする本物の教養』
このように「労働」とは、「どうでもいいもの」と捉えると、企業はその「どうでもいいもの」を折角ならより楽しく・ワクワクさせる為の「乗り物」と考える事もできます。どうでもいいからといって仕事の手を抜くという事ではなく、期待された仕事はこなす前提ですが、どうでもいいと捉える事で堂々と自分の信念に従って働けるではないかと考えます。
さて、現代は企業に意味的価値が問われる時代になってきたと先述しましたが、その意味的価値こそが「どうでもいいもの」を「どうでもいいけど自尊心を持てるもの」に変える因子になると考えます。自尊心とは「気高く、自分に誇りを持って生きる為のバロメーター」と定義したいと思いますが、人間が自分の行為に対して意味を持てる状態であってこそ、そのバロメーターが良好な状態になります。自分の行為に対する意味は、人それぞれだと思いますが、「世の為、人の為」になっている感覚を覚えられるかどうかが重要だと考えます。人間誰しも「人の役に立ちたい」と潜在的・本能的に思っていますので、その感覚の有無が自尊心として帰結し、その感覚をより強固なものにするのが企業の意味的価値です。よって、自分に合った「乗り物」に乗れば、「労働」は「どうでもいいけど自尊心を持てるもの」となり、その乗り物である「企業」は、その感覚を覚える為の手段に過ぎないのです。
ここで、意味的価値を持った企業によって、自尊心を持った労働者の自発的責任感・向上心・主体性といったものは搾取され、資本の論理に包摂されていくのでは、といった指摘もあるかもしれませんが、そんなことありません。何故なら、労働者にとって「労働」は「どうでもいいもの」だからです。「どうでもいいもの」と捉えているのであれば、そもそも搾取されているという感覚はないはずです。資本の論理に則れば、形式的には労働者が雇用主に搾取されているように見えるかもしれませんが、本質的には労働者と雇用主という概念はその企業の一機能を担っているに過ぎず、お互いにフラットな立場で、その「どうでもいいもの」に意味を見出し合っているのです。簡単に言えば、お互いにそれぞれの役回りで遊んでるといったニュアンスです。
最後に今回の命題に私なりの答えを纏めると以下です。
「労働」は「どうでもいいもの」である一方、折角なら「どうでもいいけど自尊心を持てるもの」にする為に「企業」という「乗り物」があり、「労働者」と「雇用主」がフラットな関係で、それぞれの役回りを担いながら、人間の群れを形成し、その群れの中で遊んでいるに過ぎない。
このように考える事で、「企業」という存在と「企業と労働者の関係」をポジティブに捉える事ができると思いますし、このような気付きを与えてくれた本研修は、実りあるものだったと思います。
読者の皆さんにも新たな気付きになれば幸いです。
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