見出し画像

謎の古墳時代を読み解く その9 蘇我宗家の一族滅亡の謎に迫る 馬子について

 今回は古代豪族の蘇我宗家の謎について考察します。ここでは、主に蘇我馬子に注目して記載したいと思います。(当初は蘇我一族全てを記載する予定でしたが、長くなったため、今回は馬子までとして、またいつか次回にて、蝦夷、入鹿の後半を述べたいと思います。)

□蘇我家、蘇我の馬子とは

 まずは簡単に蘇我稲目蘇我馬子の親子について振り返ります。この時代の前提知識です。

 蘇我稲目物部尾輿の時代に、仏教の布教を許すか許さないかという「崇仏論争」で、反対派の物部氏(主に軍事を担当)や中臣氏(主に祭祀、神事を担当)と肯定派の蘇我氏(主に財務や外交を担当)がヤマト政権内で政権争いも加わり激しく対立。なお、蘇我稲目の2人の娘が欽明天皇に嫁ぎ、後に用明天皇、推古天皇、崇峻天皇を生んだ。また、もう1人の娘も用明天皇に嫁いでいる。天皇の外戚としての地位や権力を確立した。

 この両家の争いはそれぞれの息子の蘇我馬子物部守屋の代にも引き継がれ、両者の政権争いや天皇家の後継者問題なども複雑に絡み、争いが本格化。用明天皇が崩御した際は、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、馬子が先手を打ち穴穂部皇子を殺害。最終的には、587年の「丁未の乱」と言われる争いで、蘇我馬子側が勝利して、物部守屋が殺されて物部宗家が滅亡。このとき聖徳太子も蘇我馬子側に参加して共に出陣。このとき聖徳太子が仏法の加護を受けて勝利出来るように四天王への戦勝を祈願し、後に、宣誓を守って四天王寺を建設。

 蘇我馬子が、6世紀末から7世紀初頭にかけて飛鳥寺(法興寺、元興寺等とも呼ばれる)を蘇我氏の氏寺として造営した。飛鳥寺は、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。

 蘇我馬子は、泊瀬部皇子に自分の娘を嬪(側室)にして崇峻天皇として即位させたが、後に馬子が政治の実権を握っていたことに不満を持ち、馬子を殺そうと考えた崇峻天皇を配下の東漢駒に命じて暗殺。その後、東漢駒は馬子の娘で崇峻天皇の嬪となっていた河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。

 蘇我馬子推古天皇を即位させ、推古天皇は聖徳太子を皇太子、摂政とし、蘇我馬子と共に内外の政治を行う。律令制の導入を行い、仏教や儒教や神道を手厚く保護し、朝鮮半島には任那の回復のために出兵し新羅と争い、中国には遣隋使を派遣して仏教や律令制を学ぶ。また、全国に屯倉(みやけ:ヤマト政権の王家の直轄領)を整備して、王権の勢力を拡大。

 推古天皇28年(620年)に、聖徳太子と共に「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」など、日本で最初の歴史書を記すとされる。いずれも蘇我氏滅亡により失われ、現存はしていない。

 蘇我馬子は、邸宅に島を浮かべた池があったことから「嶋大臣」とも呼ばれた。日本書紀にも、嶋大臣の記載がある。

※蘇我馬子の関わったことは他にも沢山ありますが、書ききれないため、相当省略して記載しています。

※今回、ここでは全て"天皇"という単語を用いて表現していますが、この時代にはまだ"天皇"という呼び名ではなく、実際には"大君"と呼ばれていたと思っています。後に『日本書紀』が作成されたときに、天皇に書き換えられたのではないかと思っています。後に「日出処の天子」で聖徳太子を聖人化し、蘇我氏を悪者化し、乙巳の変、大化の改新での正当性の論理付けや新生日本を強調するためです。

※同様に、ここでは、通説に合わせて、聖徳太子、聖徳太子が摂政という形で記載していますが、実際には、聖徳太子という呼び名も、摂政という位も、後の時代に作らたもののため、実際には、この時代ではそうではなかったと考えています。

□大前提として日本書紀が改ざんされている事実

 『日本書紀』には、天智天皇(中大兄皇子)中臣鎌足(藤原鎌足)を英雄とするため、そして古来より代々の天皇家こそが日本の正当な支配者であることを国内外に正式に伝えるために、『日本書紀』の制作に当たり、元々あった記録から編纂する際に内容を改ざんや捏造したという考え方があります。

 その首謀者は、天智天皇の実の弟とされる『古事記』、『日本書紀』の編纂を命じた「天武天皇」であり、中臣鎌足の実の息子とされる「藤原不比等」です。そして改ざんや捏造の程度や解釈の差こそあれ、『日本書紀』は、これらの人物にとって大変都合が良いように書かれている、事実とは異なる内容の記載もあるというのは、既に日本歴史界の通説であり、常識にもなっています。私もそう考えています。

 もしかすると、日本初となる正式な歴史書である『日本書紀』に嘘の記載があるなんて信じられない。捏造や改ざんされているというような"陰謀論"こそが最も怪しいと思われるかもしれません。しかし、実際に以下のような状況証拠もあります。

①『古事記』と『日本書紀』の内容に差異がある

 同時代に作成され、元となっている資料も『帝紀』、『旧辞』などとほぼ同じため、基本は同じ内容になるはずなのに実際には内容が異なります。そして内容が異なる点は、天武天皇、藤原不比等のヤマト政権にとっては都合が良い内容が多いです。あたかもヤマト政権だけが、天皇家だけが代々の支配者であったり、ヤマト政権が良い印象となるピソードが多々あるからです。例えば、『日本書紀』には、高天原はほぼ登場しない、大国主命の出雲のエピソードはほぼ書かれていない、景行天皇日本武尊命の英雄伝説と美しい親子愛、磐井の乱の際は磐井が新羅の賄賂を受けてヤマト政権に反乱したなどがあります。

②『日本書紀』の記載内容とは異なる記述の木簡が出土

 『日本書紀』では、「大化の改新」の後に、「改新の詔(かいしんのみことのり)」という勅命が発せられ、以前はこれにより、公地公民制租庸調の税制、班田収授法など新しい律令制が確立したと考えられていました。その改革者が中大兄皇子(後に天智天皇)と中臣鎌足(後に藤原鎌足)の2大英雄です。しかし、1967年に藤原京後から出土した多数の木簡(699年の日付)により『日本書紀』に書かれていた詔の内容は編者によって後の奈良時代に潤色されたものであることが明確となりました。

 具体的には、「郡評論争」と呼ばれた問題です。大化改新ごろの日本の各地方行政を示す文字として、国と(ぐん)が用いられたか、それとも国と(こおり、ひょう)であったか、701年の大宝律令により変わったのか、645年の改新の詔からで変わったのか、という点を軸に展開された論争です。『日本書紀』に書かれた「改新の詔」によると、このときにから群に変わったことになります。しかし、大化の改新後にも7世紀末頃までが用いられていた事が当時の木簡の記載内容から判明しました。は、古代朝鮮半島と古代日本で用いられていた国の中の地域を表す行政単位です。古代朝鮮半島の律令制を日本が真似して導入したものと思っています。

 このことから、『日本書紀』に書かれている改新の詔の内容は、後に改ざんされたもので、本当は、701年の大宝律令により制定されたものだった可能性が高まりました。なぜこのように約半世紀前に制定された出来事にしたかったのかは明らかで、乙巳の変という政権のクーデター、ときの大臣の暗殺事件であった出来事を、世のための改革という正当性を持たせるためだと考えられます。

③『日本書紀』の修正された痕跡のある箇所が、大化の改新あたりに集中している

 『日本書紀』は、全て漢文で書かれています。『日本書紀』の全30巻の現存する写本を専門家の方々が研究した結果、巻によって表記や文体が異なっていて、大きく2種類の異なる文体の特徴がある事が判明してきたようです。その内の1種は、漢文として完璧で、正しい文法、語彙が使われていて、当時の渡来人によって書かれたものと考えられます。もう1種の方は、漢文としては間違った文法や日本人感覚的な表現などがあり、当時の日本人が書いたと思われる文体だそうです。

 どうやら、元々の『日本書紀』は、渡来人が中心となって漢文で編纂しており、それを、最終的に日本人が手直しして完成させたようです。そしてその手直しが大量に加えられた痕跡のある文体がある箇所が、まさに「乙巳の変」と「大化の改新」について書かれた第24巻と第25巻となるそうです。

 この状況証拠より、おそらく蘇我氏を悪者にして貶めるような記載と、中大兄皇子と中臣鎌足を正しい事をおこた英雄にするような記載が加えられたのではないかと推測することが出来ます。

□蘇我家のルーツ

 蘇我氏の始祖は、第8代孝元天皇の三世孫で5代の天皇や神功皇后に仕えた日本史上の伝説の忠臣である「武内宿禰」となっている。なお、この武内宿禰を始祖とする古代豪族の一族には、蘇我氏の他にも、波多氏紀氏巨勢氏平群氏葛城氏など多数の有名豪族が存在している。

 蘇我宗家のルーツでは、途中に、蘇我韓子(からこ)蘇我高麗(こま)という、朝鮮半島、高句麗を由来とさせる親子の名前も登場する。このことから、蘇我氏は、渡来系とも縁があり、渡来人の力も上手く利用しながら、勢力を拡大させてきたと考えることが出来る。実際に蘇我氏の外交政策においては、新羅とは争い、高句麗とは親しい関係性がみてとれるとされている。

 この蘇我高麗の息子が、蘇我稲目(いなめ)であり、稲目が蘇我家からのはじめて大臣となった人物だ。ここから、蘇我一族の繁栄を迎える。

 この家系図から読み取れるのは、蘇我氏は、伝説の人物を始祖に持ち、長い歴史を持つ由緒正しい血筋の一族であり、渡来人とも縁がある力を持った一族にすることで、内外に対して認められやすい、力を得やすい家系図だということだ。おそらく実態とは異なるが、こういう由来を持つことにしたことで、最終的に大臣の立場に成れた、あるいは、ヤマト政権内での実際の力を得たので、こういう箔付けの由来のルーツにした、という事だと思う。

□主要な人物の血縁関係

 この時代においては、以下のような血縁関係や婚姻関係があり、全員が一族、あるいは皇族と呼べるような関係性がある事が分かる。(実際に、物部氏も蘇我氏も実は天皇(この時代では大君のこと)だったや、天皇(大君)になれる血筋の一族だったというような説も存在している。)

 ・蘇我馬子と推古天皇は、叔父と姪(3歳差)

 ・蘇我馬子と崇峻天皇は、叔父と甥(2歳差)
  蘇我馬子の娘が崇峻天皇の妻

 ・蘇我馬子と聖徳太子は、大叔父と甥(23歳差)
  蘇我馬子の娘が聖徳太子の妻

 ・推古天皇と聖徳太子は、伯母と甥(20歳差)
  推古天皇の娘(太子のいとこ)が聖徳太子の妻

 ・蘇我馬子と物部守屋は、義理の兄弟
  物部守屋の妹が馬子の妻とされる
  (物部氏の娘が馬子の妻なのは間違い無し)

 ここで重要なのは、聖徳太子からすると、蘇我馬子は、大叔父であり、義理の父親でもあり、また、推古天皇も叔母であり、義理の母でもありで、とてもこの二人に頭が上がるような立場では無いということだ。

 ここで補足ですが、推古天皇は、『古事記(ふることふみ)』に記載がある最後に登場する天皇です。つまり、推古天皇の時代までが、いにしえ(古)の時代として扱われています。このため、「古(いにしえ)を推し量る」という意味から、「推古天皇」という名前がつけられています。このように、当時は推古天皇以前とそれ以降の天皇の時代が、当時の1つの時代の区切りの基準となっていたことをまさに推し量ることが出来ます。

□蘇我宗家の名前の謎

 蘇我宗家の最後の3代の名前は、以下となる。

 蘇我 子(うまこ)
 蘇我 蝦夷(えみし)
 蘇我 入鹿(いるか)

 まず注目したいのは、蝦夷(えみし)だ。この字は、ずばり「蝦夷(えぞ)」である。ヤマト政権は、自分達の東に住む別な国の人々を野蛮な国の人々として、蛮夷として差別して扱った。これはまさに中華思想の日本版だ。中国正史では、東に住む野蛮な国の人々として、『東夷伝』という分類があり、この中に日本のことが書かれている。これと全く同じ発想だ。高貴な身分であり、ヤマト政権の中枢にいる存在で、中国や朝鮮半島との外交も蘇我宗家が、自らが自分達の跡取りに、蝦夷という呼び名を与え、呼ばせるわけがない。現代感覚で言えば、未開の地の人、野蛮人、従わない人々、辺境の人々、文明に遅れた人々のような意味合いの名前となってしまうからだ。

 そう考えれば、もしかすると、えみしという名前は、例えば、本来は、良い意味を持つ「笑子(えみし)」というような名前の漢字を、蘇我宗家滅亡後に悪意を持って蝦夷(えみし)に変えられたのか、あるいは、全く別の名前だったのに、悪者にするため蝦夷に変えられたのかどちらかだと思う。

 また、このような解説を見聞きしたことはないが、この蘇我宗家3代は、真ん中の蝦夷(えみし、えびす、えぞ)という悪字の意味を持つ名前を挟んで、さらに祖父と孫では、馬子(うま)と入鹿(しか)となり、この祖父と孫では「馬鹿(バカ)」となる。こんな名前を、当代一流の名門であり、知識人であり、皇族に連なる一族でもある蘇我宗家であえてつけるだろうか。私には、とてもそうは思えない。

 馬鹿の由来には諸説あるが、その中には、古代中国の史記に記載された秦の時代に、鹿を馬と言い張って献上した故事(指鹿為馬:しろくいば)に由来する説がある。また、古代インドのサンスクリット語(梵語)の無知や迷妄を意味する「baka」や「moha」の音写である「莫迦(ばくか)」「募何(ぼか)」からという説もある。いずれにせよ、日本の7世紀や8世紀よりも遥かに古い時代からの故事になり、この『日本書紀』が編纂された時代に悪い意味合いを持つ馬鹿という言葉の概念が既に日本にあったとしても、不思議ではない。あれほど、過去に中国からの書籍を持ち帰って熱心に学んできているのだ。

 上記のように考えると、この蘇我宗家の3人の名前は、馬子だけが本物か、えみしの音までは同じだったのか、あるいは、3人とも後で変えられたのか、いずれかのような気がしている。

 ここで、古来の人名について少しだけ補足します。名前の種類の説明と、名前の改ざんが可能なのかの疑問点への解説となります。

 古代日本のヤマト政権で始まった氏姓(うじかばね)制度と、(いみな)や(あざな)について説明します。諱は、忌み名とも書きます。忌むべきものとしての扱いです。

 まず、は、同じ血族、一族を表します。そして、は、ヤマト政権における職業や地位を表します。例えば、以下です。現在日本人も姓を用いていますが、なんとこの古代日本より用いられています。そして、元々は、中国で用いられていた制度で、それを模範として導入した制度になります。

臣(おみ)
 葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏などとされ、奈良盆地周辺の大和の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ立場にあったと考えられ、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族

連(むらじ)
 大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏などとされ、ヤマト王権での職務を氏の名とし、大王家に従属する官人

 蘇我馬子、蝦夷、入鹿は、「臣(おみ)」の代表、リーダーとして政治を行っていたので、その意味を表す「大」がついて、"大臣"として政務を行っていました。

 諱、忌み名は、本名に相当する名で、親兄弟などのごく親しい家族や、自分が使えている絶対的な主君など特別な存在の人のみが知っていて呼ぶ名前のことです。他人の諱を呼ぶのは、大変失礼なことで、通常は、諱は他人には知られていない大切な本当の名前です。通常は、その人物の死後には、本名として正式に用いる形です。

 また、これとは逆に、通常の人に広く知られて呼んで貰うための名前は、(あざな)となります。子供時代には名付けられた幼名というものがあります。大人となって周りに呼んで貰うために作った通称となるものが字です。こちらは、諱(忌み名、本名)とは違い、他人から呼んで貰うための一般的に使われる名前となります。こちらは、周りに知られていて、生きている間に良く用いられる名前です。

・日本の江戸時代の徳川家康の場合:
 徳川(苗字)
 次郎三郎(字)
 源(氏)
 朝臣(姓)
 家康(諱)
 (幼名は、竹千代)

・中国の三国志時代の魏の曹操の場合:
 曹(姓)
 操(諱)
 孟徳(字)
 (幼名は、幼名は阿瞞や吉利)

 なぜ本来の本名となる諱が、忌み名とも呼ばれ、周囲に知られていないか、通常では使わないのか、それは、古代の人々の信仰によるものです。

 言霊や呪術に基づく信仰があります。本名とはその人の魂そのものを表します名を付けるとは呪(しゅ)をかけるという行為です。古来、その人の本名を知って、その名前を呼んだ場合、その人物の魂を操れるという思想や、本名に対して呪術を仕掛けることで、相手を呪い生命へのダメージを与えたり、望むように操ったりする事が出来ると考えられていました。単純に捉えれば、この呪術を防ぐために、通称の字があることになります。そして死後にはもはや呪術の影響を受けないため、本名を用いて記録されています。この言霊信仰による考え方は、古い時代になればなるほど強まり、逆に現代に近づくほど弱くなる傾向があります。

 例えば、馬子の場合は、「蘇我(氏)大臣(姓)馬子(諱)」となります。蘇我宗家の諱となる馬子、蝦夷、入鹿などは、本来、当時の人々でさえ一般的には知られていない、本当に限られた人のみが知ることが出来た名前の情報です。このため、蘇我宗家滅亡後に当時の権力者が、彼らの諱は、実は馬子、蝦夷、入鹿だったとして記録して、公開してしまえば、そういう本名だったとして、簡単に偽れるのではないかと感じています。(もう1つは、蘇我宗家滅亡時に蘇我氏の持つ記録、書籍等が一緒に焼失していることも関係しています。)

□馬に縁がある二人

 蘇我馬子と同年代を生きた聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのみこ)とは、共に名前に馬の縁がある関係性がある。なぜ、うまやど(馬小屋)となるのかの名前の由来としては、聖徳太子が馬小屋で産まれたからや、母親がお産のために蘇我の実家に戻っていて、聖徳太子が蘇我馬子の屋敷で産まれたからなどの説がある。

 なお、イエス・キリストも馬小屋で生まれている。これは本当に偶然なのだろうか。このため、聖徳太子が馬小屋で生まれたというのはキリスト教(景教)の神話を元に創作されたもので、実話ではない、聖徳太子を聖人化、神秘化するために後に創作されたエピソードだ、という見方の説もある。同時代を生き、共に推古天皇を支えた偉大な政治家二人が同じく馬に縁があるのも意味深だ。

 蘇我馬子の意味は、「我は蘇る 馬小屋で」という意味で、諱をつけた。つまり、馬子こそが、キリスト教(景教)のイエス・キリストに見立てられて名付けられた人物名だという説もあります。馬子こそが当時の聖人だったという見方です。これが正しいかどうかは分かりませんが、諱を付けるときに、意味を持たせることは、古くから一般的に良く行われていたことは事実です。例えば、「徳川の家を康(やすらか、あんたい)にする」、「曹(家の長男)は徳を操る (孟は古代中国での長男を表す意味の字)」などもそうだと思います。名を付けるとは呪(しゅ)をかけるという行為であるため、そこに意味を持たせようとするのはとても自然です。現代でも、子供に名を付けるときに親が子供への願いを込めて名を付けるのと同じです。そしてこの思いは、きっと古来から未来にも受け継がれていく普遍の文化だと思います。

 厩戸皇子は実在していた皇太子とされており、蘇我蝦夷この時代の政治は、厩戸皇子(聖徳太子)が行ったものではなく、ほぼ全て蘇我馬子が旗振り役をして行ったという設もある。というのも、聖徳太子が摂政となったのは推古天皇が即位した593年の20歳のときで、その後、605年には当時の都の飛鳥から約20km離れた斑鳩宮へ一家で移り住んでいる。通常の感覚だと隠居生活となり、実際にこれ以後は、『日本書紀』でも聖徳太子の登場の頻度が下がっていく。

 一方、蘇我馬子は、聖徳太子が産まれた頃から既に大臣として政治を担当しており、聖徳太子が斑鳩宮に移り住んだあともずっと推古天皇を支えて死ぬまで政治を行っている。実に4代の天皇に使えて、54年間もの長きの間、大臣として政権を担い、権威を奮ったとされる。

 イメージとは恐ろしいもので、馬子よりはるかに若い聖徳太子が摂政になってからは、馬子は政治の表舞台から消えていき、推古天皇は聖徳太子に頼り切りになったと思っていたような人が多いかと思う。実態はそうではなく、聖徳太子が飛鳥で政治を行ったのは推古天皇の36年間の治世の中で、最初から約12年間ほどの3分の1ほどの期間だけで、聖徳太子が飛鳥にいる間も飛鳥からいなくなってからも推古天皇は馬子を変わらずにずっと信頼して重用している。自分を天皇にしてくれた恩人であり支えてくれる人物なのだと思う。

 このような時代の流れで冷静に歴史を捉えると、蘇我馬子という偉大な絶対的な立場の政治家がいる間に、その馬子の甥や娘婿でもある20歳以上も若い聖徳太子が摂政となり、わずかな期間に実権を握り、聖徳太子の考えで数々の政策を行ったと考えるのはかなり不自然だ。また、聖徳太子が摂政になる前となった後、そして斑鳩宮に移り住んだ後でも、特に内政や外政において大きな政策方針の変更は感じられない。一貫性はあるのだ。つまり、聖徳太子(厩戸皇子)が行ったとされる政策も、実際は蘇我馬子が主導した政策であり、厩戸皇子もその手伝いをしていたというような解釈の方がかなり自然だと思っている。

□物部氏宗家の滅亡時の味方や混乱無し

 物部氏はヤマト政権における連(むらじ)の代表的な存在で、「大連(おおむらじ)」として主に軍事を担当していた。物部氏は、天孫降臨系のルーツを持ち、最も古い時代、早い段階からヤマト政権の中核を担って来た一族である。527年(継体21年)に九州で起きた筑紫の磐井の乱において、ヤマト政権軍の将軍として乱を鎮圧したのが物部麁鹿火(『古事記』では、物部荒甲と記載)である。

 物部守屋が滅亡する最後の戦い丁未の乱においては、守屋に味方した豪族はほとんどおらず、逆に馬子には他の多数の有力豪族が味方している。それでも、ヤマト政権の軍事を司っていた物部氏はかなり手強く、馬子側もかなり苦戦したように書かれている。実は『日本書紀』には、守屋自身による普段からの粗暴な振る舞いが多く書かれている。そのような人望が無かったことによる影響もあるかも知れないが、それにしても「大臣」と「大連」による二大勢力の最終権力争いとは、到底思えないような敵味方のバランスである。そして、物部氏滅亡後も全く混乱なくすぐに治まっている。

 このことから、本来、蘇我馬子には実はちゃんと人望があり、周りも蘇我に味方したのかも知れない。真逆の他の説としては、周りが誰も逆らえないくらい蘇我一族が強かった、怖かったという解釈もあるが、私はそうは思っていない。なぜならば、ヤマト政権の軍事を担う物部氏が立ち上がったというのであれば、そこにいま他の豪族たちも味方すれば、憎き蘇我一族を排除出来る最大のチャンスだからだ。もし、他の有力豪族が物部守屋に味方したら、間違いなく蘇我馬子が滅んでいたと思う。実際には、そうなっていないということに、意味があると思う。

 蘇我一族と物部一族の争いでは、昔から、1つだけ腑に落ちないことがありました。それは、姓(かばね)の違いです。姓は、ヤマト政権における役割や地位を表しているはずで、一族の位や格を表していると思います。だとすれば、同じランク内の「臣(おみ)」あるいは「連(むらじ)」の中で権力争いが普通であり、ランクが異なる「大臣」と「大連」がどちらがヤマト政権で一番かの覇権を争うような大争いをしているのが不思議です。蘇我と物部なら、蘇我がワンランク上の存在になるからです。おそらく、姓の差異は単純な位だけの差異の話しでは無いのだろうと思います。実際に蘇我馬子の妻で蘇我蝦夷の母親は物部氏の娘です。ここからも、おそらくほぼ同格の扱いの位であり、共に名家の位置づけだと読み取れます。(位が異なる者の争いとして、似た話で1番有名なのは、戦国時代の関ヶ原の戦いがあるかと思います。五大老(位が上)の徳川家康が総大将の東軍と、五奉行(位が下)の石田三成が束ねた西軍(それでも、名目上は、家康と同じ五大老で大大名の毛利輝元が総大将。ただし毛利輝元は大阪城で留守番をし、関ヶ原の戦いにすら来ていない。))

 ここには、「臣」や「連」が生れた背景や位置づけに由来するような、何らかの明確な理由があると思っています。臣は、古くは使主とも書かれ、身体を表すオミ(小身)から来た言葉のようで、連は、ムラ(村)のヌシ(族長)がムラジとなって出来た言葉という説が有力です。早期から天皇家に味方して来た「連」と、後から天皇家に従うことしたや、天皇家から派生して生れた「臣」との関係性や差異など、何らかの関係性がありそうです。

 なお、『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇は、684年に「八色の姓(やくさのかばね)」という新しい姓制度を制定している。「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度で、このときに、かつての最高位に位置した臣と連は、一気に下位の姓とされている。第二、第三の物部や蘇我などを生み出さないように、古来からの有力一族の力を削ぐ狙いがあったと思われます。有名な藤原家(中臣鎌足→藤原不比等の一族)の姓は、朝臣です。

□崇峻天皇の暗殺時の反対者や混乱無し

 崇峻天皇が暗殺されたとき、なにより、当代の最高権力者である天皇が殺されたのに、その後に、ヤマト政権内に全く混乱の痕跡がないのが不自然です。他の豪族たちも何事も無かったかのように馬子を受け入れたままです。この点から、近年は、馬子だけが単独で暗殺したのではなく、ヤマト政権内での事前の示しあわせがあり、主だった豪族間の合意の元で天皇暗殺が実行されたという説があります。この場合は、崇峻天皇の性格や言動や行動、あるいは政治や宗教などの目指した思想や政策として、ヤマト政権にとっては受け入れがたい何か重大な問題があったのだと思われます。殺されても仕方がないくらいのレベルの問題です。そういう可能性もあるかとは思います。

 もう1つは、崇峻天皇の暗殺の実行犯とされている東漢駒が馬子に殺されたのは、一般的には、馬子が犯人の口封じのために殺したとされています。しかし、口封じに成功したにも関わらず、これだけ公になっているのが不思議です。真相は分かりませんが、もしかしたら、暗殺の黒幕は別にいて馬子はただ崇峻天皇を暗殺した犯人を探して見つけだして殺しただけなのかもしれません。今となっては真相は闇の中です。

□推古天皇の蘇我馬子への絶大な信頼度

 612年、推古二十年の推古天皇が60歳のときの春正月にて、馬子が推古天皇に使える喜びの歌と、それに対する推古天皇の馬子を称える歌をお互いに歌っている。これらの歌には、両者の思いが込められており、強い信頼関係や絆を感じる事が出来る。

 なお、この『日本書紀』の記載内容は、実話という説と創作されたものという説もあるようだ。私自身は、天武天皇や藤原不比等にとって、このような蘇我馬子の良いエピソードを創作する意味がないため、元々書かれていた実話だと捉えている。もし仮に創作だったとしても、当時の人々にとっては、このように見える関係性だったと思われていたわけで、この考察には影響ないと思っている。以下の内容となる。

正月七日 天皇は宴会を催され、酒を振舞われた。
是日 大臣(蘇我馬子)が杯を献上して、歌を詠んだ。

「やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十陰 出で立たす 御空を見れば 万代に かくしもがも 千代にも かくしもがも 畏みて 仕へ奉らむ 拝みて 仕奉らむ 歌献きまつる」

天皇(推古天皇)曰く、

「真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真鉏 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」

 歌の意味としては、馬子が「我が大君に永遠にお仕えします!」というような歌を歌い、それに対して、推古天皇が、「蘇我の人よ。蘇我の子たちが、もし馬ならば、有名なすぐれた日向の馬だろう。太刀ならば有名なすぐれた呉国の真刀だ。そうなのだから、蘇我の子たちを大君がお使いなるのはもっともなことだ」と歌った内容となる。推古天皇が、蘇我一族を、名馬や名剣に例えて褒め称えている。このように、温かい信頼関係があると思う。そして、天皇にこのように読まれる蘇我馬子が、悪者、独裁者にはとても思えないのだ。

 そして、ここには、とても気になる点が2つある。こんなところにも、古代の謎は潜んでいるのだ。

 1つ目は、馬子が推古天皇のことを「大君」と呼んでいることだ。それに対して、『日本書紀』の説明文には、「天皇」と書かれている。おそらく、原文では大君と書かれていた箇所を天皇に変えたのではないかと思う。

 2つ目は、推古天皇自身が、大君が蘇我一族を使うのは、もっともだと言っている点だ。自分が大君にも関わらず、なぜこのような表現になっているのかが不思議だ。私が馬子を重用するのは当然だと言いたかったのか。それだとストレートな表現すぎて恥ずかしかったのか。あるいは、馬子からの永遠に使える歌への返礼として、たとえ自分が退位して次の大君の時代になっても、蘇我の子供達が永遠に重用されると言いたかったのか。私は、ここには何らかの意図があったと思う。

 また、別の説としては、推古天皇は大君じゃなかったから、大君が蘇我を重用していることを当然だという歌をうたったという解釈もある。例えば、このとき聖徳太子が大王、大君であり、推古天皇が天皇という存在だったという考え方だ。一見論理的に聞こえるが、もしそうだとすると、比較的近くに住んでいる聖徳太子がいない状態で、蘇我馬子がまず最初に大君である聖徳太子に永遠に使える歌を歌い、それに対して、推古天皇が答えた形となってしまう。実はこれはかなり不自然だ。大君(聖徳太子)より上の最上位に位置する天皇(推古天皇)が目前にいるのだから、まず、推古天皇を褒め称えるのが普通だと思う。実は、この時代に聖徳太子が大王であったことにすると、もう1つ、少しだけ辻褄が合うことが起きる。『隋書』に登場する倭国王の「多利思比孤」(男性が王)が、聖徳太子のことだと考える事が出来るからだ。(ただし、それでも名前が異なる点は解決しない。)
 その他にも、実は、このときは聖徳太子が大王、大君、天皇の存在で、推古天皇は既に身を引いて引退して見守っているような状況も考えられるかもしれない。そうだとすると、論理的な辻褄は合うかもしれない。

 もしも、仮に大君(この時代の真の支配者や、または実権は失われつつあるが象徴的な位が高かった存在)が推古天皇とは別にいたと仮定するならば、私はそれは推古天皇より下の立場に相当する聖徳太子ではなく、推古天皇より明らかに上の立場としての北部九州倭国連合の大君、倭国王の阿毎多利思比孤と仮定したい。もし、そうだとするならば、遠く離れた大和の地で、まずは、馬子が二人の上司に相当する最上位の立場である大君(多利思比孤)への忠誠の意志を伝え、推古天皇が大君が優秀な馬子をお使いになるのは分かると丁寧な言葉で返すのも辻褄が合うからだ。もちろん、この場合、この春の祝宴には、九州倭国連合王からの使者も招かれて参加していて、後から二人のこのやりとりが大君(多利思比孤)の耳に入ることも踏まえた上での歌という大前提だ。かなり突拍子もない考察だか、実は論理的には、矛盾はしていないと思う。もしかしたら、こんな驚くべき真相があったのかもしれない。もしかしたら、さすがに、妄想が過ぎるのかも知れないが、こういう推論が出来るのも、古代史の1つの面白さ、楽しさの魅力だと思う。

※『隋書』については、謎の古墳時代を読み解く その4 隋書の倭国 前編および、後編をご参照ください。

 ここで、推古天皇が大臣の蘇我馬子のことを決して"馬子"と呼んでいないのは、上述した通りで、諱・忌み名の考えに基づくものだと思います。当時の馬子は、周りからは嶋大臣という呼ばれ方や記述のされ方が一般的だったようです。

 推古天皇は、大臣の諱が"馬子"と知っていて、あえて思いを込めて、馬の名馬に例えたのか、あるいは、このエピソードもあったから、後に馬子という名を諱だったことにして記録したのか、どちらかのような気がします。

□もしも、馬子が極悪非道な権力者、私利私欲のために権力を奮っていたとしたら

 馬子が悪者で、自己の私欲を追求するような人物ならば、以下のような矛盾点が浮かぶ。ヤマト政権内における物部氏との勢力争いがあったことや、蘇我一族の繁栄の思いがあったのは事実だと思う。一方で、あくまでも馬子は、自分達のヤマト政権、そして大君、自分達の国となる日本の将来ために政治を行っていたと感じるのである。

・自分の娘をわざわざ嫁に与えるならば、自分の権力を生かして崇峻天皇の側室ではなく、妃にすれば良いはず。そして、やがて産まれてくる子供、自分の孫を次の天皇にすれば良い。まだ即位前で妃も決まっていない状況で、あえて側室という形で娘を差し出して、別の女性を后に選んで良しとしているのは、馬子が悪者ではない人物だからでは無いだろうか。

・崇峻天皇を本当に馬子が指示して暗殺したのだったら、こんなにオープンに公式に記録が残るなんておかしいと思う。黒幕も実行犯も明るみになり、もはや暗殺ではなく無っている。そして、その後に馬子自身にも害が及ぶと思う。そうじゃないと、そもそも政権が成り立たなくからだ。天皇になれば、力を持つ臣下に暗殺される。誰もその臣下には逆らわず、お咎めを受け無い。そんな政権で、誰が天皇になりたいだろうか。普通は、誰が暗殺の黒幕なのかは明確にはならないものだ。実際に歴代天皇の中で、崇峻天皇だけが唯一、臣下に暗殺されたとされる天皇である。本当に暗殺ならば、おそらく暗殺ではないかと疑われるか、あの人物が黒幕や犯人と暗に分かったとしても、うやむやになり書き残されないと思う。事実とは異なるが、そういうことにしたかったから書かれているのではないかと感じるのである。もう1つ付け加えるならば、馬子が東漢駒を殺害したとされる後も、東漢氏は引き続き、蘇我氏(蝦夷や入鹿)に仕えている。理不尽に口封じに殺されただけならば、東漢の一族として黙っていないし、変わらずに蘇我氏には仕えないと思う。

・もし、聖徳太子が実在したとして、もし馬子が政治を独裁や専横していたならば、本当に書かれているような状況ならば、聖徳太子だけがやりたい政治を自ら自分でやろうとしたら、すぐに排除されたと思う。聖徳太子にとって馬子は20歳以上年上の大叔父であり、義理の父親だ。政治のキャリアの経験値の差も20年以上ある。馬子が専横していたならば、皆が蘇我馬子の顔色を伺って誰も太子に協力しないはずだ。そもそも、馬子が面白いはずがなく、皇太子が廃されるか、暗殺されるはずだ。どちらでもないのは、馬子が悪者ではなかったか、あるいはスーパーマンとしての聖徳太子などいなかった(実在の厩戸皇子をまるで別人のように創作しただけ。実際は馬子の功績を聖徳太子という人物の功績にすり替えただけ等)かのどちらかだと思う。

・もしも、聖徳太子が『日本書紀』に書かれている通りの人物ならば、推古天皇もすぐに聖徳太子に天皇位を明け渡したと思う。もともと、推古天皇は、敏達天皇の妃だったわけで、最初から天皇になるべき人物では無かった。次の天皇への間の繋の女帝のはずだ。蘇我馬子すらも抑えて政治が行なえて、素晴らしい政策を次々に打ち出す立派な皇太子である聖徳太子がいれば安心して退位したはずだ。そうなっていない所に、実際にはそうではなかったという事を感じる。推古天皇は36年間在位した。この時代の天皇においては、かなりの長期安定政権だったことになる。

・蘇我馬子が日本初の女性の天皇、推古天皇を生み出した人物となる。この時代、頭が本当に柔らかくないと絶対に出来ない選択肢だと思う。まず、日本史での前例が無い(太古には邪馬台国の卑弥呼や壱与(台与)など女性の王がいた)。通常、前例に流されるものだ。さらに、当時の中国や朝鮮半島の文化圏では、男尊女卑の思考がかなりあり、女性の王朝など考えられない時代であった(7世紀末の中国史上唯一の女帝である武則天は異例の例外ケース)。向こう側では女が王など馬鹿にされる。そんな風潮の時代の中で、女性の王を生み出したのは、馬子がいかにアイディアマンであり、かつ柔軟な思考と、自らの強い意志があり、決断力や行動力に長けていた証拠だと思う。なお、蘇我の血を引く男性の天皇候補ならば、何より厩戸皇子(聖徳太子)も該当するし、他にももちろん存在している。

・もし、馬子が悪者で自分の保身や一族の財や繁栄だけを目指したなら、きっとこの時代が暗黒の混乱の時代になるはずだ。実際は、日本が発展している時期で、日本の古代史でも光輝いている時代だと思う。推古天皇を支え、馬子が正しい政治を行ったからこそ、国が豊かになり発展し、飛鳥文化が花開いたと思う。そう、なにより結果が全てを物語っていると思う。

 ここで、藤原不比等について、思うことを少しだけ書いておきます。聖徳太子と同様に、良く藤原不比等もかなりの政治上のスーパーマン、偉大な大天才という評価や扱いをされます。長きにわたる藤原家の繁栄をもたらした偉大な始祖であり、天皇を中心とした貴族社会、そして藤原家が政治の実権を握る摂関政治のシステムを考えて確立した人物とされているからです。この藤原不比等がいる時代に起きたことや残された何かあれば、直ぐに不比等が黒幕だや、そこに不比等が関係していると解釈されがちです。

 私は、確かに藤原不比等は、大変優秀な人物だとは思いますが、実はこの政治システムの全てが藤原不比等の発案でも何でもなく、単に蘇我氏や物部氏等から歴史を勉強して学び、彼らの真似をしただけ、また彼らが滅んでしまった教訓を生かしただけだと思っています。

 具体的に言うと、天皇の外戚として家を繁栄させ、政治を行う立場となり実権を握るやり方は、古代ヤマト政権の豪族達、蘇我氏や物部氏がやっていたことと同じです。蘇我氏が大臣、物部氏が大連としてだったのが、藤原氏では摂政、関白、内覧としてであり、名前が違うだけで、仕組みとやっていることは同じです。そして、藤原不比等は、自分の四人の息子達にそれぞれの家を起こさせました。南家、北家、式家、京家です。ここが不比等の頭が良い所で、蘇我氏や物部氏の宗家があっさりと滅亡したことを踏まえ、藤原家もそうなる可能性があるため、4つにすることで藤原氏が生き残る可能性を高めた、自分の血筋が絶えないようにした工夫だと思います。

 そして、私の中では、藤原不比等は、後の徳川家康ともイメージが重なります。徳川家康も天才には違いませんが、織田信長、豊臣秀吉というさらなる先人の大天才達が行ったことや行いたかったことを真似してやったことが多く、また、藤原不比等をも真似して、徳川将軍家の他に徳川御三家を作ることで、血のスペアを用意して、徳川将軍家の世が続き、自分の子孫が生き残るようにしたと思います。

 このように、古代豪族の仕組みがはるか先の時代にも多大な影響を与えていて、過去から歴史を学び、成功を真似して、教訓を生かした者が、次の時代の勝者になり、新しい歴史を作ってきたのだと思っています。

■次回は、新唐書の日本国 前編 歴代天皇について

 次回に続く

 全編への目次に戻る

最後までお読み頂けありがとうございました。😊

いいなと思ったら応援しよう!