出逢った意味しかない
私のおばあちゃんが、固形物を食べられなくなった。
まだ、私が幼稚園の頃、今の家に引っ越して来て祖父、祖母の家と2世帯住宅8人で暮らしていたのだけれど、
何か作っては上の階にあるおばあちゃんの家に届けて、
「美味しいよ、上手だね〜☺️」と褒めてくれるその笑顔が嬉しくて、私は夢中になった。
私が初めて作ったバースデーケーキも、おばあちゃんのために作ったものだったその記憶がまだ鮮明に頭に残っています。
私がお菓子作りにハマったのはそこが原点でした。
小学生の頃、80歳になったお爺ちゃんが亡くなってしまったけれど、寂しい気持ちがありながらまだ人の死についてよくわからなかった私。
大人になるにつれて、大切な人とのお別れという経験をしなければいけないことは当たり前のことだけれど、どんなに大切に思っていても、失ってからもっともっと大切にすればよかった、もっと話を聞けばよかったと後悔してしまうのだ。
今、本当に私にとって大切なおばあちゃんが亡くなろうとしている。
また私は後悔してしまいそうでこのNoteを書いているのです。
おばあちゃんとはもう、まともに会話ができなくなった。
ただ、まだ私の名前を呼んでくれる。
こんな光景を目の前にすると自分が何のために生きているのかわからなくなる。
自分だって必ずいつか死ぬじゃない。大切な人も、いつか。
そう思うと改めて、儚い人生だと改めて考えさせられるのです。
人を笑顔にする仕事がしたくて、料理の道に進みました。
食卓を家族や大切な人と囲むことは、人生にとってとても重要なもので、最も幸せな時間なのではないかと私は感じます。
お金持ちだとか、可愛いとか、有名人だとか、正直そんなものはどうでも良いのです。
そして、それは日本だけじゃなくて、目の色が違えど、言葉は違えど、人としてその喜びは共通するものだということ。
誰にだって大切な人は一人くらいいるでしょう、そんな人を美味しくて温かいご飯で笑顔にしたいなと。
私はもう、おばあちゃんにはもうそれをしてあげられないのです。
とっても悲しいけれど、仕方のないことなのです。
平等に来てしまうことの順番が回って来ただけ。。。
おばあちゃんはきっと長くないけれど、兄の子供が生まれたり、友達の産んだ新しい命と出会って、また考えさせられる。
今まで出逢って来た人も、これから出逢う人も、
人と出逢うということには意味しかないと思うのです。
だから目の前の人も、その人の大切な人も、その大切な人の大切な人も、
いつ失っても後悔がない程、大切にしたい。
つい目の前のことにいっぱいになってしまう。
人として大切なことを忘れそうになってしまう。
世の中が便利に変わりすぎて、いいこともあるけれど
自分の大切な思いは変えたくないなと思う。
おばあちゃん、私は今の仕事が本当に心から楽しいよ。
これからも頑張るからね、
おばあちゃんにもう食べさせてあげられない思いをも背負って。
苦しそうなおばあちゃんを見て、長生きして!頑張って!とはもう言えないけれど、おばあちゃんがいい人生だったなと思っているよう祈っています。
大好きだよ。