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#21 「普通」ってなんぞ?

「普通」にイラッ

学校や会社、誰かと関われば他人の言葉にイラッとすることはある。
その中で、意外と多いのが「普通」という言葉だった。

学生時代——男子たちの会話にて
「え、彼女いたことあんのとか普通じゃない?

学生時代——テスト終わりにて
「この問題くらいできるのは普通だろ

社会人——先輩社員からの指導にて
「新人だろうが、これくらいの仕事はできて普通だから

とあるネット記事にて
「男は女に奢るのが普通」「若い女を求める男は普通

普通ってなんなんだよ。

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

デジタル大辞泉(小学館)

辞書を引いて解決、というわけにはいかなさそうである。

他人に「普通」はほぼ存在しないのでは?

「普通」という言葉。
自分に対して使うぶんには、攻撃性を帯びないと思う。

「今日の体調は普通だな
「仕事も片付いたし、今日は普通に帰れるな
「最近、朝5時に起きるのが普通になってきたんだよね

などなど、「普通」という言葉をよく使う。

となると、
自分以外の他人に使う際に攻撃性を帯びることがある、ということになる。
そこで思った。
他人への「普通」という言葉は通用するものではないのではないかと。

もちろん全ての「普通」が通用しないわけではない。
例えば、体調が悪く見えれば「顔色が普通じゃないよ」と言うだろうし、犯罪行為をしようとしていれば「あの動き、普通じゃない」と言う。

そういった例外を除けば、他人に「普通」という言葉は使っても無意味なんじゃないかと、最近思えてきた。
先の例で、僕がイラッとした「普通」も別に普通ではない。

学生時代に恋人がいたことがない人だっているだろうし、
どんなに簡単な問題でも苦手な人はいるだろうし、
どんなに頑張っても、できない仕事だってあるだろうし、
女性が男性に奢ったり、割り勘するケースだってあるだろうし、
年上の女性を求める男性だっているだろうし。

他人に普通などはほぼ存在しないのだと思う。

サラッとカミングアウトするけれど、僕は難病患者である。
かといって病気を患っている状態がもはや日常なので、普通の状態だ。
けれど、病気を患っていない人から見れば普通ではないかもしれない。

人の数だけ、その人その人の「普通」が存在するのだ。
なので、他人に「普通」という言葉を使ってしまうと、それは「自分の普通の押し付け」にしかならないのではないだろうか。
おそらく、僕は「その人の普通」を押し付けられたからイラッとしたのだ。

そして、僕は思う。
「その人の普通」というのは、その人の個性にもなりうるんじゃないかと。
なので押し付けることもしない方がいいし、比べることもしない方がいい。
「自分だけの普通」を自分だけが大切にできればそれでいいのだと思う。

みんなちがって、みんないい

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。


私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。


鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』

本記事を書きながら、ふとこの詩を思い出したので引用して、結びとする。
この詩は1924年、今からちょうど100年前のものである。
科学の進歩、価値観の変化が著しい現代だけれど、この言葉の重みというのは全く時間を感じさせない。
そういう言葉を編み出せる人間になっていきたいものだ。



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立竹落花
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