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あの子はね、
昨日まで同じグループで仲良くしていた「あの子」たちと、次の日には挨拶すらしない関係になっていた。中学生の頃だ。
当時、学校でそういう類の人たちを度々見かけた。
「あそこ、分裂したらしいよ」
自分には縁の無い話だろうと思っていたけれど、ある日、わたしも「そういう類の人たち」になっていた。
「あの子」を褒めた言葉が次の日には悪口として広まっていて、悪口を言った張本人として同じグループにはいられなくなった。
何がどう伝わってそうなったのかはわからない。
大人になったらわかるかもしれないと思ったけれど、ずっとわからなかった。
だから、単にわたしと馬が合わないと思っていただとか、同じグループにいられるのは何か不都合だったとか、自分が信じたい理由を並べてやり過ごした。
最近、又吉さんが10年ぶりに出したエッセイ本『月と散文』を読んだ。
その中で、「誰々が言ってたよ」と第三者から指摘された自分のイメージになぜ嫌悪感を抱くのかについて書かれたエッセイがあった。
自分の性格が暗いと自認している人は、「暗いね」と誰かに指摘された経験があるだろう。それが嫌で少し元気なふりをしてしまうこともあるのではないか。あるいは、自分の性格が明るいと自認している人は、やはり「明るいね」と誰かに指摘され、過剰に明るく振る舞わなければならないと苦しんだことがあるのではないか。
(略)
そういう誰かの行動を制限するような言葉は全て呪いだと思っている。
青くて浅はかだったあの記憶が、ようやく腑に落ちた気がした。
わたしが褒め言葉として指摘した言葉は、「あの子」にとってストレスだったのかもしれない。
わたしに無いものを「あの子」は持っていた。羨ましいと思ったし、本当にすごいと思った。けれど、きっとそれを表に出してはいけなかった。「あの子」がどんな人かは、「あの子」に関わったそれぞれが感じることであって、わたしが「あの子」のラベルを勝手に決めてはいけなかった。
今となっては何が本当なのかわからない。
けれど、中学生だったあの時、もしこの可能性を知っていたら「あの子」たちとの違う未来があったんじゃないかと、どうにもならないことを思った。
「あの子ってどんな子なの?」
もしそう聞かれることがあったら、どんなふうに答えばいいだろうか。
主観に囚われない仕事や趣味、あるいはその子とのエピソードについて話すのが適切だろうか。けれど、それらのどこを切り取るかによって印象は変わってくるし、切り取る本人に委ねられている。「そこじゃないんだよな〜」と思われることだってあるかもしれない。
ならばいっそのこと、どんな人だと紹介されたらうれしいのか、本人に聞いてみるのはどうだろう。
そこで相手が答える内容は、きっと自分の中で自信が持てるところなんじゃないか。
そうして、ぐるぐると考えた後で浮かんできたのは随分と無責任な言葉だった。
「とりあえず、一度会ってみてよ」
正解ではないけれど、正解にしたいと思った。