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ベルクソン『精神のエネルギー』にて

アンリ・ベルクソンの哲学は、大正時代に大流行しています。だが、当時、
彼の「記憶イマージュ」を、ドーナツ状のトーラス構造でイメージする学者はいなかったのではないでしょうか。

たとえば、彼の「純粋記憶」を、球体の球面とするなら、ブラックホールの事象の地平面に情報が潜在的に保存されているかのような「ホログラフィック原理」にも興味が湧いてきます。

さらには、球体の中心を「現在」として、そこを通る垂線を、「純粋持続」とするなら、物質の最小単位が、点ではなく、ひもであるかのような「超ひも理論」にも興味が湧いてきます。

現在を通る「純粋持続」と過去一般の「純粋記憶」のどちらにも重ならない
「記憶イマージュ」を、ドーナツ状の形でイメージできるなら、その内に、「時間の流れ」という幻想も収まります。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

ベルクソンの哲学を、再評価してみてはどうでしょうか。

われわれはあらゆる瞬間に電気を起こし、大気はつねに電気化され、われわれは磁気の流れのなかを循環しています。それにもかかわらず、数千年のあいだ数多くの人間が電気の存在を推測せずに生きてきました。われわれはまた、テレパシーの存在にも気付かずに、そのかたわらを通りすぎてきたかもしれないのです。しかしそれは重要なことではありません。いずれにしても、疑えない一点は、もしテレパシーが実在するならばそれは自然なものであり、われわれがテレパシーのためのもろもろの条件を知ることができるときには、テレパシー効果を得るためには《生者の幻》を待つ必要がなく、それは今日では電気の火花を見るためには、以前のように天の善意と嵐の場面というスペクタクルを待つ必要がないのと同じだ、ということなのです。

――pp.80-81「《生者の幻》と《心霊研究》」

しかし、彼は神秘体験を肯定する学者です。スピリチュアルが苦手な方は、自身の霊体験によって裏づけられない知識とは、しっかりと、距離を置いてください。うっかり信じて余計なカルマを背負うことがないように。

以上、言語学的制約から自由になるために。