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noteの意味と、書けなかった自己紹介
noteを始めてから数ヶ月、気になることが2つありました。
一つは自己紹介をどうしても書けないこと。
もう一つは、書いているうちに文章の結論がわからなくなることです。
自己紹介は義務じゃないし、文章に結論がなくても別に良い。
結論や締めがなくても魅力的だったり、心を打つnoteはたくさんありますから。
でも私にとっては、この二つが必要に感じられました。そこに何か重要な問題があると。でもその理由がわからない。
喉に刺さった小骨のように、この事実は私の中で違和感として残り続けていたのです。
ところが先週の午後。
お茶を飲みながら「はてなブックマーク」を見ているときに、大きな変化が起きました。
予期せぬときに、突然に、ある記事が小骨を取り除いてくれたのです。
その「はてなブックマーク」の記事は、「積ん読」に関する内容でした。
海外でも、「積ん読」は基本ユーモラスな言葉として紹介されているようですが、ある学者と編集者はそこに驚くべき効能を発見したというのです。
記事は、統計学者のナシーム・ニコラス・タレブ氏の、
「読まずに積んだ状態にされた本は、まだ知らない物事があるという事を、常に思い出させてくれる」存在であるという指摘を紹介。
また、本の所有と読書は密接に関係している、という過去の研究結果も取り上げられており、それによると、多くの蔵書がある家庭で育った子どもは、大人になってから識字能力、計算能力、情報通信技術能力が向上したそうです。
さらに、編集者ジェシカ・スティルマン氏の、
「あなたが読んでいない本は全て、あなたが無知である事の表れです。しかし、自分がどれほど無知であるかを知っていれば、多くの人々より遥かに先にいるのです」という言葉を紹介。
そして最後に、「読まなくては」と思わせてくれる事自体が、積ん読の価値だ、という一文で記事はまとめられています。
『「日本の概念に救われた!」 国際語となった『積ん読』の驚くべき効能に外国人が歓喜』より抜粋
私はこの記事を読んだ時、思わず笑ってしまいました。
たかが「積ん読」をこんな真面目に分析しなくてもいいじゃーん!と思ったからです。
でも、その夜ベッドに入ってふと、こう思ったのです。
「じゃあ私は「積ん読」について、真剣に考えてみたことはあったの?」
もちろん、積ん読について考える義務も必要もありません。
日本人の多くは「積ん読」の意味を「なんとなく」理解しているから、この言葉が会話に出てきても、大きな認識のずれは発生しないでしょう。
だけどその共通認識が、イコールとして私にとっての「積ん読」かと言われると、話は違ってくる気がします。
そして大切なのは、「自分にとっての『積ん読』の意味を知ること」ではないか、と思ったのでした。
ナシームさんとジェシカさんは、「積ん読とは何か」を自分に問いかけて、答えを出されたはずです。
とはいえ一朝一夕で、わかりやすくて「なるほど」と思わせる言葉が出てくるはずはありません。
このお二人は、折に触れて様々なことを研究したり調べたりしながら、己に問いかけ続けてこられたのではないでしょうか。
だからこそ発信された彼らの言葉は、海を超えて日本に住む私に届き、夜中にうんうんと考え込ませる力を持った気がするのです。
ただ、「積ん読」の新たな一面を伝えるにとどまらず。
私もかつては、彼らほどではないにせよ踏み込んで物事を考えていました。それを伝えようともしていました。
けれど、あることを境にそれをめっきりしなくなったと思います。
伝える相手をかなり限定するようになった、というのが正しいかもしれません。
長い付き合いの、気のおけない数人だけに。
しかし長い付き合いの相手というのは、すべてを言葉にしなくても、ニュアンスや感覚でこちらの言いたいことを汲み取ってくれます。
日記には言葉を使って書いていたけれど、自分が自分に語りかけるわけですから、これもまた行間を当然に汲み取れるわけです。
そして他の人には、大人としての社交術で対応する。
こうして私は知らぬ間に、言葉に怠惰になっていきました。
連動して、もう一歩踏み込んで考えなくなってもいました。
「なぜ?」を自分に問いかけなくなっていたのです。
「生きる」ことの本質から、遠ざかっていたのです。
この事実に気づいた時、私は自己紹介が書けず、文章の結論がわからなくなる理由がはっきりとわかりました。
同時になぜ、自分がnoteを続けているのかも。
私は以前に別の記事で、「この世は意味があふれすぎている、溺れそうになるくらい」と書きました。
その気持ちは今も変わっていません。ただ、この場合の意味とは『誰かが決めた意味』を指します。
偉い人、賢い人、有名な人、影響力のある人。
自分以外の誰かが考えた意味です。その人たちが教えてくる意味です。
でも、本当に大切なのは「自分にとっての意味」ではないでしょうか。
それは人それぞれ違い、どれもがその人にとっては正解なのです。
これをしっかり持っていないのは、結構怖いことだと思います。
自分でも気づかないうちに、どこか思いもよらない場所に流されてしまう。
そして「こんなはずじゃなかった!」などと、叫ぶことになるかもしれません。
自分にとっての意味を見つけるには、自分と対話をすることです。
でも、己と話すだけで終わってもダメなのです。
己と対話をしたことを、人に伝える必要があります。
初めて会う人、考えの違う人、環境が違う人など、様々な「他人」に。
もちろん同時に、相手の言葉にも耳を傾けながら。
そうすることで人は初めて、立体的な「自分にとっての意味」を掴むことができるのだと思います。
自分の足で自分の人生を、歩くことができると思うのです。
私はすべてをあいまいにしたまま、感覚だけを握りしめて人生を続けるところでした。
というか、その方向へ無意識に舵を切っていました。
楽だから。心地いいから。
でも私の中の一部は、それを「良し」としなかったようです。
手を替え品を替え、心の深部からNOを叫び続けてくれました。
私はこの声に応えようと思います。いいえ、答えたい。
だから、もう一度「なぜ」を問いかけるために。
踏み込む足を止めないために。
私はnoteを書き続けていこうと思います。