インタールード/無条件の愛
Morrissey & Siouxsie - Interlude
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先日夢を見た。
家族4人でレストランに出かけた。レストランにはなぜか大きなベッドとシングルベッドがひとつづつ置いてある。わたしたちが持ってきた物なのかもしれない。わたしたちは皆で大きなベッドのベッドメーキングをした。
レストランを出て車を走らせていると次男がいないことに気がついた。携帯にかけても繋がらない。どこか観光地のような所に着いたが気が気で仕方ない。仕方ないのでレストランに戻り探すが次男の姿はない。シングルベッドも消えていた。
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この数年間、次男にとっては苦しい時間だったに違いない。大学を卒業間近で行かなくなってしまい、家に引きこもっていた。
もともと子供の頃から大人しい性格で引っ込み思案。そんな彼を頼りなく思い、ついつい過保護に育ててしまったところがある。
家の手伝いはしてくれるものの、働かずにずっと家で引きこもっている彼をわたしはとても心配していた。このまま年をとってしまったら彼はどうなってしまうんだろう、と。
それでもある日わたしは心配するのをやめた。
働かない彼を心配していること、それは次男を条件付きでしか愛していなかったということに氣がついたから。今のままの彼を無条件に愛して、そして信じよう、そう決心した。
わたしはそのことを次男に伝えた。働きたくないならそれでもいい、家にいたいならずっといればいい、そのままの君でいいよ、と。他に何を話したか忘れてしまったけど、涙が抑えられなくて泣きながら話すわたしの言葉に彼は無言で頷いていた。
あれから3年が経った。今も次男は家にいるが、彼には去年わたしが始めたビジネスを手伝ってもらっていて(つーか、便宜上彼が社長)、とても頼りにしている。はっきり言って彼がいなかったらわたしひとりでは成り立っていない。
あのとき信じて良かったと思う。今、彼についてはもう大丈夫って感じている。でも一つだけ氣になっていたことは家にほとんどいるために全然体を動かしていないということ。自分から運動するわけでもなし。
だから先月からジム通いを始めた兄と一緒に行くように家族で背中を押しまくったの(笑)そしたら本人もその気になって積極的に通い始めた。やはり運動するのは気分がいいらしい。体を動かせばエネルギーも上がっていろんなやる気も出てくる。
そんなときに見た夢。ベッドメーキングの夢は人生のターニングポイントを意味しているらしい。わたしたち家族も何か変化の時を迎えているってことだ。
そして次男がシングルベッドと共に消えてしまったのは、家族の擁護から独立してひとりで自分の道を歩き始めたということなのかもしれないと思った。
夢の中でいなくなった彼をはらはらと心配しているわたし。結局次男に依存しているのはわたしのほうだったのかも、と思ったり。
この数年間の静止していた時間も彼の大切な人生の一部。それが無駄だったなどということは決してない。その間だって、彼は自分なりの音を奏でていたんだから。
そして今ようやく動き始めた彼。もっともっと自由に歌ったっていいんだってことに氣づいてくれるかな。自分が本当に本当に素晴らしい存在なんだって氣づいてね。母はただ見守っているよ。
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モリッシーとスージー・スーがカヴァーしているこの曲はもともと1968年の同名のイギリス映画の主題曲で、アメリカのソウルシンガー、ティミ・ユーロが歌っている。
意味を調べていて「間奏曲」の他に「幕間に行われる劇」のようなものも「インタールード」と呼ばれていることを知った。それで今わたしたちがいる人間の世界は魂の目線から見たらその「インタールード」みたいなものなんだと思った。
宇宙は常に無条件の愛を与えてくれている。信じられないかもしれないが、わたしたちが受け取るもの、悲しみや苦しみでさえもそのすべてが愛なのだ。その愛に氣がつくため、愛を自分のものにするためにわたしたちは地上でそれぞれの役を演じ続けている。
そう考えたら、曲中の「ふたり」は人とその人の魂(ハイヤーセルフ)との関係ともとれる。魂に沿った生き方ができている時、きっとそれは喜びに満ちた時間だろうけど、またいつ離れていってしまうかもしれない危うい関係とも言える。
わたしは音楽をまともに聴いていない時期が何年もあって(←魂とめっちゃ離れてた頃w)、ザ・スミス解散後のソロのモリッシーは完全に後追い。なので後から大好きなモリッシーとスージーがデュエットしていると知ってすごく嬉しかった。
こんなにしっとりと素敵に歌い上げているふたりなのに、しかし仲良くはなれなかったよう。モリッシー先生、ご自身の自伝でスージーのことを数ページにもわたってかなりボロクソに書いていらっしゃる。「ブランマンジェのような身体をしている」って何やわけわからんのだけど(笑)
攻撃性とは実は心の奥からの助けを求める声、ともいわれる。自分に無いものを求めるが故の心理。これはどちらが優れているという話ではなくて、トラウマに満ちた人間意識どっぷりのモリッシーの波動と既に精神世界?にいっちゃってるスージーとでは相容れない関係だったみたい。
そんなふたりのデュエット曲、ある意味象徴的だなあと感じる。
まあ、これは98年の話で自伝の発行は2013年。モリッシーも最近は宇宙的に変化してきている氣がするので、今だったらスージーともちょっとは仲良くできるんじゃないかって思うよ(希望的観測w)。
最後に。ここんとこのわたし、何となく気分的にすっきりしないというかちょっと自分にモヤモヤしている。それでずいぶん久しぶりにモリッシーの昔の曲を聴きたくなった。彼の歌声は胸の中でギューッと固まっている何かを包み込んで優しく肯定してくれる。
苦しいよね、でもそのままでいいんだよ、って。
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参考。スージーとモリッシーのことを書いた記事が面白かった。興味のある人はDeeplとかで訳して読んでみてね。
モリッシー先生ソロバージョン。
ティミ・ユーロ版。スージーに声質が似ている。
Spotify : noteで書いた曲をプレイリストにしています。
前回の記事。スージーちゃん。
見出し画像:Laura Fuhrmanさんの写真
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