故郷のこと。
平日の朝
サラリーマン、中高生のチャリ通、小学生たちの登校班、街が起き始めるころ
僕の故郷は関西の田舎にある。
ふと、自分が精神科作業療法士としてバリバリに働いていた9年間を思い出す。
もちろんこんな病気になるとも思っていなかったし、なったとしてもこんなに苦しいものだと知らなかった。
僕が出会ってきた患者さんたちは
僕と同じではないけれど、精神的な病気に苦しみに日々狂わされながらも笑顔でいる
それは同時に病気が決して不幸であることを確定させない証明でもある。
ありふれたごく普通の家庭で自由に育った僕は
今思い返すと発達障害の診断は降りないレベルのグレーだったように思う。
それはそれは生活はめちゃくちゃなものだった
物は無くすし忘れるし物は壊すし骨は折るし
勉強し過ぎて頭はそこそこ良いし運動しても疲れを知らないから無敵
でもルールが分からんままバスケを6年間続けてレギュラーにはなれず
人柄だけで生徒会長になり、ノリで大学を推薦で選び実習を居眠りで落とし、国試も落ちてようやっと作業療法士になった。
そういえば大学も1限に間に合うことは稀だった
授業は病的な睡魔に勝てず学部の長に呼び出されナルコレプシーの検査を受けてこいと言われ
言われたことを忘れて居眠った。
バイトなんて遅刻常習犯でいつも店長の鬼電で起こされて出勤していた。
一つ覚えるとできてしまう僕はチャーハン作りがうまかった。
ホームセンターのバイトではバックヤードの商品の上で寝ていた。
なんやかんやで
こんな僕は立派でなくとも社会人になった
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高校の時におかんに買ってもらった高い高い電子辞書を川に落としてしまったことがあった。
買ってもらって2日目のことだった。
しかも川に落としたことに気付いてすらなかった。
川に落とせるシチュエーションなんて無いだろうと誰もが思うだろうが
僕はメガネすら亀の水槽に落として無くすし、高級な高い財布すらお風呂の湯船に落とす。
生きづらいと感じたことは一度もなかった。
それは僕の周りの友達もじゅうぶんにクレイジーだったからだ。
うつ病の人が、パニックの人が、PTSDの人が、発達障害の人が、少ないから浮いてしまうのであって
当時の僕らの時代と故郷の学校の雰囲気はそれこそ今この国が推進しているインクルーシブ教育そのものだった。
保健室登校や多少の配慮はあったけど
知的の子も明らかにぶっ飛んでる子も同じクラスでなんの違和感もなく学校生活を送っていた。
それこそ住んでいる地区ごとにおじちゃんおばちゃんが世話をしてくれたり
時期になればお芋掘りをさせてくれたり
近くのばあちゃんちに寄ればいつでもお菓子やごはんを作ってくれた。
訳のわからん食感のグミも、謎めいた和菓子も食べさせられた。
豆の入った煎餅が大嫌いだったけど豆だけ捨てて食べていた
多様性や個性を大切にしたいとこの令和の時代に改めて気付くべきことは
今やろうとしていることは新しいことではなく
過去の子育て文化を改めて思い出そうぜってことだと僕は思っている。
それを叶わなくしたのはもちろん時代の流れだ。
だからこそ、思い出すだけではもう追いつかなくなってしまった。
インクルーシブだの多様性だのと
新しい風の言葉を売り出してアップグレードして世の中に広めないといけない。
素晴らしい時代を生きた昭和の人たちが今や新しい子育て支援や発達障害への理解の妨げになっていることが少なくない
「みんなで一緒に学ぶ」
これが当たり前に受け入れられていた時代はこの国の人が終わらせてしまった。
僕たちはどんな子もいじめられても守ったり喧嘩したり味方したり
不確かな人間関係を繰り返す学校生活の中で確かなものにしていった。
大人のテコ入れなんてほとんどなかった。
何度も何度もコミュニケーションを取って、その子がどんな子かを知り何の違和感もなく助け合ったように思う。
「あの子は違う」だとか
「あんまり関わったらあかんで」などと言い出したのは昔の大人たちだ
僕らはそんなつまらないことに理解を示すわけがなかった。
違うからおもろいんやん。
何言うてんねんこいつら。という感じで全然怒ることなくまず聞いてなかった。
大人になって故郷の同級生と集まる機会があると
ここから先は
未来に向かって置いて。
てめぇが消えたくなった時には俺はもう生きている。
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