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Сатоша
2015年12月29日 09:23
期待することは良いことだ。ピグマリオン効果というものもあるくらいだ。然し、其れはストレスの原因にも成り得る。言葉を選ばなければ、「期待外れ」という失望と憤慨だ。視点を変えれば、期待とは一種の暴力なのかもしれない。勝手に期待して勝手に失望・憤慨するなんてことは、確かに暴力とも思える。言うなれば、友人の友人が年賀状をくれないと憤るようなものだ。其れでも期待せずにいられないのは、性善説的であ
2015年12月26日 23:53
賑わいが夜を奪った。静かな夜は、探しに行かねばならないものとなってしまった。時代が白夜を求めたからだ。 時代の異端は、破れた傘を手に土砂降りを歩くことを求められているようで、熱が更に更に奪われていく。 暖を取るためのホット・コーヒーに自分の顔が映る。だから表情もなく、髪を掻いた。
2015年12月26日 11:06
「淋しい味」というものがあると感じる。例えばカレーの福神漬け。小さい頃は「不味い」わけでもないが、食べる気にならず、親にあげることが多かった。 今では当たり前のように、福神漬けを食べて、積極的にではないが「美味しい」と感じている。 そのような時に、「此れは、淋しい味だ」と感じる。 成長したことが、どうしてか淋しい。良いことなはずなのに、どうしてか淋しい。 淋しいのだが、確かに「美
2015年12月23日 17:39
寄り添って暖まりたいから恋人をつくる。一人では淋しく凍えるから恋人をつくる。恋を熱に喩えるなら、もっと大事なのは適度に冷ましてくれる友情だ。そんな友情に巡り合っていても、恋の熱は其れを忘れさせることがある。氷で炎が消せないように、恋の熱はある種の狂気だ。そう思っても求めずにいられないのは、いかにも人間的だ。炎の興奮より、氷の美しさを眺められる人間でありたい。無意識の中で。
2015年12月23日 15:54
桜を夢見る人は多い。ほんとうの桜ではなく、「達成、合格」のメタファーとしての桜を。 試験を受ける前から「サクラサク」、と言っているわけでもない。「志望している」だけで「其処の学生である・卒業生である」と同様のステイタスを得たと錯覚している者が多いということだ。 達成のヴィジョンを持つことは重要だが、結局は桜を夢見ているのと同じだ。なんといっても、「未達成」なのだから。故にこそ、「今」の壁
2015年12月22日 08:03
僕は、カフェ・ラッテが飲めない。嫌いというわけではない。むしろ、好きだから、この行きつけのカッフェでそれを注文する。飲めないのは、ラテ・アートのせいだ。ラテ・アートを崩すのが嫌で飲むことができない。そして、そのまま冷めてしまい、台無しになってしまうのだ。それゆえ、カフェ・ラッテが飲めないという事態に帰結する。 今日も僕は行きつけのカッフェで、飲みもしないカフェ・ラッテを注文する。バリスタの娘
2015年12月22日 01:05
公園に、ひとりの、スーツを着た青年がいた。彼はシーソーに如雨露で水をかけていた。表情は真剣そのものであり、気を違えているというふうでもない。私は彼に「何をしているのですか」と尋ねた。すると「シーソーに、水をやっています」と、答えた。なるほど、全く以て其の通りだ。何も間違ったことは言われていない。むしろ、シーソーに水をやっていると明白にわかる青年に対し、其の行動を尋ねた私の方がおかしいので