褒めてはいけない
一般的には良いとされてる事が実は良くない例はたくさんある。
その一つの例がまさに「褒める」事である。
僕は「褒める」事は決して良い事だとは考えない。
今回は僕が普段感じている事を、アドラーの考え方と組み合わせて話したいと思う。
僕はあまり人を褒めない。
よっぽどの根拠がない限り、思っていない事は言えない性格である。
アドラーによると、褒められ倒して育った子供はなんの努力もしないで賞賛を手に入れる感覚を覚えてしまい、楽をして賞賛される事に慣れてしまう。
その結果、なんの努力もせずに美味しい思いをする事が当たり前になり、困難や課題に立ち向かおうとしなくなる。
アドラーは「劣等感を言い訳にして課題の解決を放棄する事」をコンプレックスと呼んだ。
さらに、コンプレックスの中でも「優越コンプレックス」と「劣等コンプレックス」に分けた。
優越コンプレックスは、自分は何もしていないのに、周りの人間に威張り散らし、大きな態度をとり、従わせる事で優越感を覚える事である。
逆に劣等コンプレックスは自分の欠陥や弱みをひけらかし、他人の共感や動向を得ることで、自らの問題解決を放棄する事を言う。
アドラーは、自分自身で自分の問題に向き合い解決することの重要性を何度も説いている。
そして、過度に褒められて育った人間は、この課題の解決を放棄する様になると述べている。
なんの努力もしないで賞賛を手に入れるようになってしまった子供は優越コンプレックスに陥ってしまいやすくなる。
なんの努力をせずとも結果を得てきた人間は、大人になっても何の努力もしないで、他人からの尊敬や賞賛を求め出す。
そしてその為に、他人を操作したり、威張り散らす。
彼らは何もしていない。何もすごくない。
にも関わらず、「自分は凄い、偉い」と思われたいのだ。
僕はこのアドラーの考えには強く賛同している。
人が他人から褒められて得るものは見せかけの自信だけである。
「自分は凄いんだ、偉いんだ、何でも出来るんだ」という自信は砂上の楼閣である。
褒められなくなった瞬間、全ては消えてなくなるだろう。
大切なのは褒められて得られる見せかけの自信ではない。
「自分には価値があり、人の役に立てる」
「自分には生きる価値がある」
と感じれる事である。
その感覚を得る為により有効なものをアドラーは示してくれている。
それは感謝と共感である。
誰かのためにした行動で「ありがとう」と言われるだけで「次も頑張ろう」と思えた経験はないだろうか?
感謝の力は非常に偉大である。
こんな話は過去にもした気がする。興味があればぜひ探してみてほしい、どこかにはある。
このような理由で僕は人を簡単には褒めない。
そして、褒める事が良い事だという風潮にも反対である。
褒めてはいけない。
最後まで読んで頂きありがとうございました。