高尾山ノスタルジア No.10:蛇滝(1/2)
高尾山の行場としては琵琶滝がよく知られていますが、もう一つ、裏高尾にあるのが蛇滝です。
現在高尾山の表参道となっているのは、高尾橋から表参道商店街を通り1号路を登っていくルートです。高尾山にまつわるさまざまな記録は、この1号路が遅くとも江戸の後期には表参道であったことを前提としています(それより前は蛇滝道そして金毘羅道が表参道であったという仮説がある)。現在は国道20号線が大垂水峠の方へ通じているので違和感がないかもしれませんが、この道路が整備されたのは明治21年(1888)のこと。それ以前は、小仏峠を通じる道が甲州街道であり、メインストリートでした。すなわちその時分表参道に行くには、小名路追分、現在の国道20号線西浅川交叉点からメインストリートの甲州街道を外れ、間道を案内川沿いに歩いて行ったわけです。
高尾山周辺の地理をよくご存知であれば、なぜこういうことだったのかすぐにピンとくるでしょう。それは小名路追分を過ぎてすぐの駒木野宿に、泣く子も黙る、江戸時代甲州道中でもっとも堅固と言われた関所(*1)、小仏関があったからです。
明治維新後の明治2年(1869)、太政官布告により日本全国の関所が廃止されたのに伴い、小仏関も廃止されます。これにより、旧甲州街道の往来に制限がなくなったことで多くの人たちに蛇滝の存在が知られるようになります。しかるにそれまで、現在の表参道の方からみれば山の裏側、北斜面の陰鬱な場所にあるこの滝は、あまり知られない存在でした。その存在がはっきりと記述されている地誌や寄稿文のなかで、現在のところ一番古いものは安政2年(1855)の髙松勘四郎による「武州髙尾山畧繪圖」とのこと(*3)。この絵図をみると、現在の霞台の向こう側の斜面に「蛇だき」が描かれています(資料①)。
国道20号線西浅川交叉点から小仏関跡を経て旧甲州街道を下っていくと、圏央道の高架下、進行方向左に「高尾梅の郷まちの広場」があります。そこからさらに100m弱進むと、左手の傍らに石造りの道標が二本立っています(写真②)。ひとつは明治36年の銘がある「髙尾山新四國八十八ヶ所道」と彫られた石碑。もうひとつは、享和3年(1803)との銘がある「高尾山道」の石碑。ここに、「是より蛇滝まで八丁」と刻まれています。
伝説伝承の類を除き、関所廃止前の蛇滝に関する記録はほとんどないのだそうです。なお、外山徹「高尾山歴史の散歩道」によると、薬王院文書の中に万延元年(1860)付の「一礼」という文書があり、それは石屋孫七という石工が金十二両で「蛇滝開発」を請け負った証文で、それが蛇滝の開創を示す具体的資料であるとのよし(*3)。
これが蛇滝の開創であるとすると、先述の「武州髙尾山畧繪圖」は開創前ということになります。また先述の「高尾山道」の石碑の年代は、開創より半世紀以上も時を遡ることになります。これはすなわち、石屋孫七による蛇滝開発以前に、蛇滝の存在は知られていたという証左なのでしょうか。これについて、外山(*3)は「先の『一礼』に開発云々とある事、石工が関わっている事は、元々斜面に流れるような水流で水行をおこなうには地形に手を加える必要があったとも言われ、また、同時に多くの人々に参籠の機会を開くために開発がなされたという理由は(筆者注:蛇滝の)開創の碑にある通りである」と考察しています。
以上少ない資料にある史実の点と点をつなぐと、蛇滝の存在は古くより知られていたが、それが現在のような行場として開発されたのは万延元年(1860)のことらしい、ということしかわかりません。(続く)
(*1)
八王子市公式ホームページ 観光文化 八王子の歴史・文化財 文化財関連施設 小仏関跡
(*2)
《東京都立中央図書館「画像の使用について」に基づく表示》
東京都立図書館蔵 髙松勘四郎 武州髙尾山畧繪圖 安政二年(1855)
(*3)
外山徹、「高尾山歴史の散歩道」、大本山高尾山薬王院、2021、P.26 - P.29
(*4)
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出典:国土地理院ウェブサイト(地理院地図:電子国土Web)
地点強調は筆者加筆
(注1)
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参考資料:文化庁 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A