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【エッセイ】マインドフルネスが何かわからないまま、マインドフルネスを続けた人生。
最近いただいたばかりのライターのお仕事が「自分の人生を振り返る」系のもの。資料として渡されたのも同じ類の本が2冊。
自分を見つめ直しましょう、みたいなワークがたくさん載っていました。
本の内容通りに素直にチャレンジし、生まれた年から現在までのイベントと、将来の展望を書籍内のカレンダーに書き込みながら「ふむふむ」と理解を深めます。私の人生の輪郭をなぞっていく。
で。
少し前に読んだチムグスイさんの本「私を整える。」も、これに通じるコンセプトを持っていて。
上記はもっとシンプルに「ぼんやりと自分を見つめる時間を作ろう」的なものでしたが。
自然のリズムに沿って、体本来の感覚に耳を澄ませて生きようという。
自分を振り返ることを日常に取り込み、内省することで自分を知り、心地よく生きられるようにしましょう。そんなふうに受け取りました。
私自身が人生の折り返し世代を生きているからなのか。手に取る本も、舞い込んでくる仕事も、そういうテーマのものが増えてきたのでしょうか。
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眠れない日々の思い出
本を手に取りながら、思い出すのは過去の眠れない日々のこと。
20歳前後の頃、眠れない時期が続いていました。
就職活動を目前に控え、「社会に出る恐怖」が大きかったのだと推測します。
原因不明の体調不良が続き、常に鼓動が速く、微熱があり、でも病院で検査してもらっても「異常なし。精神的なものじゃないかしら(女医)」と言われる始末。
今なら「自律神経が乱れたね!」と分かるのだけど、当時は未熟で全く分かりませんでした。辛かったし、家族から理解されないことも孤独感をもたらしましたが。
あまりに困って、「こんな感じで辛い」と友人知人に相談を重ねていたら、同じような症状を抱えている人がちらほら現れて。
「大学のカウンセラー室を予約してみたら」とか(そして実際に利用してみる)、
「眠れなくても横になっているだけでかなり疲れは取れるよ」(その人も不眠ぽかった)とか、
「私も常に不調だよ!」(私の症状の数倍大変そうだったけどいつも明るかった)とか。
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そんな風にアドバイスをもらい、なんとなく症状に慣れてきたころ。
大学を卒業して、広告制作の仕事を始め、毎日残業が続き、新しいことの繰り返し。苦手なことと得意なことが入り混じる激務の日々を迎え。
いつの間にか、すべてなかったことのように治っていました。
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コミュニケーションが壊滅的だった幼少期
加筆したいのは、自分の幼少期。
それはそれはコミュニケーションが壊滅的に苦手な子どもでした。当時の大人は今のように発達状態に過敏ではなかったし、子どもの数が多かったので(氷河期世代なので年間150万から200万人の子どもがいた)、「異常に大人しい子」として大人の目をすり抜けて育っていたような。
保育園では入園半年後まで教室に入れず。
小学校では「時計の針が何時を指すか」と先生から問われて、微妙に針が四時半を過ぎているように見えることにドギマギして答えられず(四時半とわかっていた)。
漢字テストを「お友達同士で採点して提出してね」と言われれば誰にも頼めずこっそり自分で丸付けをして。
そんな状態なので、一人でぼーっとして過ごす時間が多かったのです。
帰宅時は一人で歩きながら、景色と自分の心の中だけを感じながら歩くとか。
家に着いても、当時の大人たちはずっと忙しそうで(母や祖母は家事と内職と畑)、相手にされるわけでもなく。
ぼんやりとテレビを眺め、ちらしのウラに絵を描き続け、何度読んだかわからない「りぼん」を読み返し、空の雲が流れるのを見ていました。
今思えば、あれはマインドフルネスに近い。
そのせいか、そんな状況なのに私は悩みがなく、友達がいない(厳密に言えばちょっとは遊ぶ友達がいた)状況も不安でもなく、学校も楽しかったのです。
心がいつも落ち着いていたなと、今でも思います。
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マインドフルネスを忘れて
ただ、18歳になり、大学に通い始めると世界が一変してしまって。
友達の幅が増え、サークルに入ったら同じような気質を持つ居心地の良い人たちがたくさんいて、私の世界はいきなり「ぼーっとする時間」を無くしました。
毎日が刺激の連続。
バイトも楽しかったし、遊びに行くのも、飲み会も、何もかもが楽しくて。
その生活を数年続けたら突如体調が悪くなったので、今思うと「幼少期は常に内省を繰り返していた私が、マインドフルネスを忘れた期間」だったように感じます。
ただ自己完結の世界は社会とは交わらないし、それでは残りの人生を生きていけないので、この期間は私にとっては大事なステップの一つだったと思います。多分。
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表現は内省の結果にあるもの
もう一つ感じるのは、「内省の繰り返し」は、文章を書いたり、絵を描いたり、音楽を奏でたりするために必要なステップだということ。
旅行でも遊びでも映画鑑賞でも。音楽でも。
わーっと体験して、楽しかった! また行きたい! またやりたい! で終わってしまうと、それを「アウトプットしよう!」という段階まで辿り着けません。
何もせず、ぼーっとして、今自分が生きてるな〜くらいの感覚しかないような時間を持つと。いつの間にか頭の中が整理され、経験したことが起承転結の順序を持って、脳内図書館に収まっていく感覚が生まれます。
個人の感想なのかもしれません。
ただ、私はそうなのかもなと思うことが多いです。
幼少期、無我夢中で絵を描き続けた私は、いつの間にやらライターになり、インタビューを繰り返し、その記憶を脳内で整理して文章に起こす仕事を続けています。
ぼーっとできることは、実は才能の一つなんじゃないかな。と、本を読み終えて感じるのでした。
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