【ライターの仕事】すべての人が持つストーリーを大切にしながら、言葉を引き出すために。
前回、「漫画家さんがなくなってしまうような事案はとても胸が痛い」と思っているようなことを述べました。
その直後、小学館の少女漫画編集部の人々がコメントを発表。
その文章への評価は、「お涙頂戴路線にもっていくのはよくない」という人がいたり、「でも辞表片手にここまで書いてよくやった(会社の方針には反発)」という人もいたりで。
読む人によって印象はまちまちだけど。私は「一番近くで漫画家を見守ってきた人たちの無念さ」を感じて、「このままでは終われない」というような姿勢を垣間見て胸が熱くなりました。
今回の事案を客観視したときに振り返りたい話
私自身はただの漫画好きで、読む専門ですが、今回の構図から考える部分が多々ありました。
それは、「ライターとして、地方誌や旅雑誌の編集ページの掲載をお願いする場合」の姿勢について。
出版側が経費を使って作る編集ページや、自治体や企業からお金をもらって作るタイアップページの制作では、「企画に登場するお店やスポット、人は無料で掲載してもらえる」というメリットが生まれます。それを相手が「宣伝してもらえてうれしい」と思ってくださるか「露出は望んでないのに迷惑」と感じるのかは状況次第。
これまで私は、「お店の人は無料でPRしてもらえてありがたいと思ってくださるのではないか」という大前提を持って取材をしてきた部分もあります。それを出発点として仕事を始めてしまい、何度か「あ、違う」と壁にぶつかる瞬間がありました。
お店はその人の命の結晶であり、都合のいいコンテンツではない
「取材してくださったお料理のお代は?」
「大手のメディアはだいたいお金を払っていくけど。おたくはないの?」
過去、取材現場でそんな言葉をいただき、私はハッとしました。
つまり、地方誌の場合は予算が少ないことも多く、無料掲載する代わりに「料理は無料で提供してほしい」というよろしくない慣習があります(提供していただく料理点数が多い場合、材料費を支払うなどケースバイケースでやっていた)。そのスタンスに慣れてしまった私は、全国テレビなどの取材を受けた経験のあるお店のオーナーさんから上記の申し出を受けてハッとしたのです。
そうです。タダでいいわけがないのです。
なぜなら、雑誌の誌面を飾れるような強い魅力を持ったお店に仕立て上げるまでに、オーナーさんはおそろしいほどのお金と時間とエネルギーを使ってきているから。
完成した瞬間に「それ貸して」とタダで使わせてもらう。でも宣伝になるんだからいいじゃない。それでいいわけがないとハッとしたのです。
↑このスタンスは、漫画家さんが血の滲むような努力をして勝ち取ったヒット作を土台にして、ドラマをつくる時の状況に似ています。※もちろんお互いに寄り添いながら納得のいくドラマが形になったケースもあるという前提で。
それはつまり。1人の人間が漫画家を目指し、編集者から課題を与えられた売れそうなテーマを描くのもしんどく、絵にも文句を言われ、青春のほとんどを漫画に捧げながらなんとか売れて勝ち上がり。やっと自分が描きたいテーマで連載を続けられてヒットした渾身の作品を、ドラマ化したいからちょっと使わせて(しかも作者に入るお金は激安)。でも本の宣伝になるんだからいいでしょ。の構図となんだかとても似ているのです。
相手の本当の姿をちゃんと見極める
本当に自分も取材相手も納得した上でいいものをつくりたいなら。
①相手と面と向かって会い、どういう企画に持っていくのか相談するところから始める方がいい
②相手の魅力をきちんと理解してから企画を出し、展開する
③メディアの企画の魅力と、取材対象の魅力を最大限に引き出せる合致ポイントを探してコンテンツを作る
ということができればいいのです。
しかし現状は、「時間がない」「予算がない」「そんなこと言ってられない」から、最初に企画ありきで話を進めてしまう。
世に出したい企画が先にあるから、それに見合うコンテンツ(雑誌なら企画タイトルに見合うお店)を探すわけです。先に売りたいタレントがいるから、その人に似合う原作を探してドラマ企画を立てるみたいに。
そうなると、「本当はそのお店の売りはカレーなんだけど、今回の企画はオムライスなのでオムライスを出して欲しいとお願いする」みたいな、相手にとっては見当違いなオーダーをすることになる場合も。でもお店は「いい宣伝の機会だから渋々取材を受けるのだけど、モヤモヤが残る」こともあったり。
そういうモヤモヤの積み重ねが爆発して、「もう取材は受けられません」という悲しい結末になったりもします。
取材する側は、自分たちの落ち度で「取り上げるべき素晴らしいお店や場所」を世に出せなくなるという痛い現実にぶつかってしまう。
相手に敬意を持ち、「よりよく伝える」こと
「相手にとって宣伝になるからいいでしょ」の部分。自分が会社員だった頃、上司の中には「それを口に出しちゃう人」もいました。
同僚と話していたときに、彼女が「今日こんなことがあった」と教えてくれたエピソードが今も鮮明によみがえります。
「今日○○ってお店に取材のお願いをしたら断られたんだけどね。理由を聞いたの。そしたら教えてくれたんだけど。
去年、編集の○○さんがそのお店の前で無断で撮影してて。お店の人が何をされているんですか?って聞きに行ったら、編集さんが『今、うちの雑誌の表紙を撮っていたんです。あなたのお店もちょっと写りますよ。よかったですね〜』って言ったんだって。
そのお店の人にとっては、無断で店で写真を撮られて、それが相手から頼まれて承諾した話ならまだしも。あなたの店タダで写りましたよ、良かったですねって、何それって腹が立ったって。
だから、もううちの店はあなたの会社のメディアには載りませんって断られたよ」
↑これが、スタンスを履き違えた結果のよくない話。
メディアの1ページを飾れるような魅力的なお店を作り上げた取材相手と、取材する自分の立ち位置は対等。むしろ、「うちのメディアを作るために協力して欲しい」という気持ちでお願いできるといいなと。私は感じています。
その上で、相手のいいところを多角的に観察し、「ここからみると一番素敵に見える」という角度を探して、撮影と深掘りをしていくことが理想です。
きれいごとです。多分。
でも、できるだけそのことは忘れずにいようと思います。
まさに情けは人の為ならず?
このことは、「文章が100文字しかないから、ギャラは3000円くらいでいいでしょ」と仕事を振られることに構図が似ている話なので。
サクッと短時間で100文字のまとまった原稿が書けるようになるまでに。やっぱり私たちはどれほどの時間をかけて自分を育ててきたのかを意識するべきであって(ピカソみたいですが)。
自分を大事にすることは、余裕を持って仕事をする環境づくりにつながり、相手を敬える状況を生む原動力になります。
そして相手を大切にしていれば、またその姿勢は自分へと循環するもの。
もとをただせば目の前にいる人すべてにストーリーがあることを意識して、きちんと対応しようねっていうシンプルな話。
枠がはめられていくと、なぜか核心が見えづらくなるのだと思います。たぶん。