感覚的なこころを理性的に客観的に分解しようとしたら私の世界が破綻した
2023/08/30
なんとなく思ったことの羅列です
良い思考と悪い思考。健康的な思考。
理性的に論理的に感覚的なこころを分解しようとして破綻した
「世界のある領域のことはそのままで止めておく。」
ごはんを食べておいしいな。それでいい。なぜおいしいと感じるのか。このおいしいと感じる幸福をこれかも永続的に感じ続けていくにはどうしたらいいのか。そんな風に、ただ生きてればいいのに、大した頭を持ちあわせていないのに、どうしてと世界をわかろうとするふりをするから、何も見つけられずにニヒリズムに陥るのでは。シンプルに感じたことを客観的に理性的に分解しようとしないことだって生きているうえでは大切で、楽しいから楽しい、嬉しいからうれしいである一定数のことは止めておいて、深堀すべきグループのもののそうでないものの境界線を持つことは人間として健康的な生を全うするのに大切なんじゃないかって思う。
そこに存在しているということは何かしらの意味があるということ。そもそも意味がないと存在してはいけないのか、存在できないのか。既にあるものは誰かにとって必要なものになっている?また誰かにとって苦しめるものになっている?
自分の部屋で一人で考えようとすると、気分的に落ちるだけで未来に繋がる思考にならないので、お散歩しながら軽く考えるくらいがちょうどいい。
私はまだそんなところで悩んでいるんだ、他の人はもっと生活に根差したところでそれぞれのライフステージにあった悩みを抱えているのに。という感覚。
流れないで止まっていることだって、流れに逆らっているのでそれなりの力が必要だよ。流れるのも止まるのもどっちも楽じゃない。
他人からしたらクッソしょうもないことが書いてあるんだけど、その思考や感情は実際に当時に自分に起きたことだから別に恥ずかしいものでも何でもない。
きっとnoteをはじめたのも自分からあふれ出るものを流す先も自分ですべてを受け止める器もなかったから。
字は読めるけれども、理解は、、、
自分と自分は常につながっているから、自分を客観的に見ることなんて不可能にもかかわらず、感覚的な心を理性的に論理的に見ようとして余計に自分の世界が破滅した。自分の外の世界のことなんて当たり前のように手に負えることじゃないはわかっているのに、自分のうちのこととなると、自分でどうにかできるんじゃないかって勘違いして、返り討ちを食らった。
気を散らせばいい。
一生完成しない大作として置いておく。
実際は全くそうじゃなくても、そうなるために準備を完璧にしてから外に出すんじゃなくて、そういったふりをまずしてみるのもいいじゃないか。
周りより遅れているという風に感じるのであれば、まずは無駄だと感じる時間を減らすことから始めてみてはどうか
今持っているものや今いる場所に感謝して生きるのは思考を止める処世術の一種。