別に君一人いてもいなくても変わらないのだから好きに生きたらいいよというおはなし。
1,2年前、友達と晩御飯を食べに行った帰りの電車で、「私は、これ以上、地球に迷惑をかけたくないから、害悪である人間という生物を生むつもりはない。」といったことがある。すると友達は、「私は自分一人が子供産んだところでどうこう変わるわけじゃないしなぁ」といった。
私は、自分が存在しているだけで、構造的に気づかぬうちにだれかを加害していると考えるし、実際そうだと思う。
先進国と呼ばれる国の中産階級に生まれ、ある程度の教育投資を受けて、ある程度の学歴を持って生きているというだけで、強者であり、自分の知らないところでそんなつもりはなくても、立場の弱いだれかを搾取していたり、そういった犠牲のもとに私の地盤やある程度豊かな生活が成り立っていたりする。そう思うと、自分が存在してることに苦しくなる。
私が生きてきた空間ではなんともない発言も、異なる社会集団・階層の人相手だと、傷つける言葉になってしまったりする。そんなことにも気づかず、今日も私は誰かとの会話のなかで、知らぬうちに相手の心に刃物をあてているかもしれない。
今私が食べ物にも住む場所に困らず、日々死の危機を感じずに生きられる一方、世界中では莫大な数の人が、生きることすらままならなかったりする。もちろん、幸せに生きてる人だって数え切れないほどいるのだから、私が勝手に世界は苦痛で満ちているなんていうことはあまりにも横暴すぎるが。しかし、貧困も紛争も差別も何もかも消えないし、今も苦しみながら生きてる人がこの地球にごまんと存在すると思うと、心がしめつけられる。私一人の心が痛んだところで、誰も救えてはないのだが。そんな風にして、勝手に世界の苦しみに心を馳せては、勝手に疲弊している。
わたしが好きな「自傷無色」という曲の一部にこんな歌詞がある。
『こんな僕が生きてるだけで
何万人のひとが悲しんで』
『こんな僕が消えちゃうだけで
何億人のひとが喜んで』
『こんな僕が生きたところで
何億人のひとは知らないし』
『こんな僕が消えたところで
何億人のひとは変わらない』
この僕と一緒で、私も、あまりにも、自分の存在に意味や意義を求めすぎたのかもしれない。自我を肥大させすぎたのかもしれない。自分の影響を勝手に大きく見積もりすぎたのかもしれない。だからこそ、僕と一緒で、私がいてもいなくても世界は変わらないことに、その事実に勝手に絶望するのだ。主語を自分から人類にまで大きくしてどうこう思ってるとか逆に傲慢すぎる。
別に僕が存在してようが存在してまいが、世界はかわんなくてもなんでもいいし、僕は、自分の周りの好きな人と、ただ好きに生きればいいのだと思う。生きたいとか死にたいとかそんなのくだらないってどっかで僕は思ってるし、もう生きちゃってるんだから生きるしかないんだと思うとも僕は思ってるはずだ。
もっと自分の範囲を狭めて、他者なんておろか、自分の苦しみすらにも思いを馳せず、楽しいことだけ考えて生きていればいいのだ思う。だってそういったところで、自分のことだけ考えて生きるなんてなんて自分をはわがままでどうしようもない人間だと、勝手に自己嫌悪におちて、無限ループのように勝手に心を病ませていくのだから。
自分一人存在したところで何も変わらないし、いなくなったところで何十億の人は知らないのだから、自分なんている意味がない、ではなく、自分が生きたところで死んだところで、ほとんどの人には関係ないのだから、好きに楽しく生きればいいんだよ。なんなら、一応数人は、自分がいなくなったら悲しんでくれる人がいるから。そう思えるようになることが、生きていくうえでは大切なのだと思う。
私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。