ぽつりと
年単位で自分のために何かを書くということをしていなかった。 このnoteは自分のためだけに書きたいことを書いている。 それが2年ほど間が空いていた。 この2年の間に私は、会社員をしながら新たなことを始めた。 作詞家だ。 運よく大手のレーベルのアーティストに詞を提供することができ、まだまだこれ一本では生きては行けないものの言葉でお金をもらえるようになった。 作詞をする中で感じたのは自分の言語化能力が低いといういうか、以前に比べて衰えたということだ。それは表現の豊かさだけでな
これまでの人生、わたしはどちらかといえばよく努力してきた方だと思っている。中学高校時代は、苦手科目は克服するようにしたし、得意科目は学年の枠を超えて学んだ。部活も1年生からレギュラーになった。生徒会も務め、今でも続く学校ぐるみの国際支援ボランティア(と言っても簡単なものだが)を立ち上げたりもした。大学も似たような形で勉学やそれ以外の活動に睡眠時間を削りながら取り組んできた。 社会人になってからも変わらず、昼夜を問わず働いて、途中自律神経を壊して休んだこともあったが、まるで
このゴールデンウィークに伊香保温泉に行ってきた。 都心からのアクセスの良さや最近の昭和レトロ人気で、昭和の香りが漂う街には多くの人がいた。 伊香保の街には人が集まる店もあれば、店を閉めてから長らく時間が経っているであろう店もあった。そして、人が集まる店は比較的新しい店が多いように見受けられた。 街の盛り上がりがまだらになっていて、街でともに時間を重ねてきたお店がそっと幕を閉じて、そこにあるのにあたかもないようなそんな感覚を覚えた。 観光客も帰った夜、オレンジの街灯に照ら
なんでも、というと言い過ぎな感はあるが、私は料理においてはどんなものでも作ってみるのが好きである。 お店でしか出ないような盛り付けを自分のためだけにしてみたり、他に使い道の思いつかない調味料をちょっと買ってみて聞いたこともないような名前の料理を作ることもある。 とにかく、自分の手でつくって成功すれば自分を褒め。失敗すればどこを変えると良いのかをうんうん一人で考えている。 私生活も、仕事も実は自分の思い通りにことが運ぶというのは稀で、人の営みの中で比較的コントローラブルな
三ヶ月ほど前の話になる。その時に書いた文章を今もう一度読み返してやっぱりそうだと思うので、載せようと思う。 台湾のBL映画「刻在你心底的名字」(邦題「君の心に刻んだ名前」/英題「Your name engraved herein」)という映画をNetflixで観た。 はじめに言うと、これまで国内外を問わずBL映画をいくつか観たことがあったが、強く心に残ることがなかった。 この作品も、そのくらいのものに出会う心構えでみた。金曜の夜に。 そして、あまりに強いパンチを喰らうと
映画も小説も、しあわせな結末だけじゃなくかなしい結末も好きだ。 かなしい結末を見た時に、心にそうっと流れるかなしい気持ちの小川を感じるのが好きだから。 かなしい結末の中にある、それでも生きていくしかない人の在り方が生きることを肯定してくれてるような気持ちになるから。 誰かが死んでしまうかなしい結末は、ちょっと複雑な気持ちになるけれどやっぱり好きだ。あんまりにもかなしくて、もし本当の人生もどう頑張ったってかなしいなら、そのかなしさの中でも優しく生きようと思えるから。
僕はしょんぼりしている。 多分ぼくは、何者にもなれないこととか。 今決意してることなんて朝起きれば忘れてることとか。 いきている中で突き詰めたいことが実はないこととか。 魂のレベルで体力ないこととか。 今日のほとんどを瑣末な書類のために捧げてしまったこととか。 そんなことで多分だけど。しょんぼりしている。 高校生の時。 今よりももっと、何かになれた時。 歩いた道を思い出す。 あの時も、悩んだりしてたけれども。 多分今の方が、思春期にぴったりなことを悩んでるいる、と、言
なんだかちょっと泣けちゃう話を読んだ時とか、人生の悲哀を人の俗な部分に乗せて描いたCMを見た時とか、つらい恋愛の先に結局なんの答えも見出せないラブソングを聴いた時とかに、余韻がいいよねとか、描かれてない部分がいいよね。とか言われると 「あ。あなたそのタイプね」 ってちょっと思う。 わかったふりしないでよ。結局その余韻の中で描かれているもの、頭のなかに浮かび上がってないでしょう。描かれてないとこをどう読み取ったかまで話してよ。 とか思っちゃう。 翻って自分で言うと、そう
あのこはいいなさっかーがじょうずで あの子はいいな、スポーツができて あの子はいいな、ぼくより勉強してないのにテストでいい点取れて あの子はいいな、英語がペラペラで あの子はいいな。立ち上げた会社がうまくいってて。 あの子はいいな。キラキラ仕事をしてて。 あの子はいいな。上司に気に入られていて。 あの子はいいな。いい仕事が回ってきて。 でもたぶん、きっと、うらやましかったのは、あの子はあの子で自分の楽しいこととか輝くことを自分で決めてると、たとえその時だけでも
ある気持ちのいい秋晴れの休日、テレビニュースをみていると、玄関のベルが鳴った。 ドアを開けるとそこには大きなダンボール箱を抱えた配達員がいた。はて、こんな荷物とどく予定があっただろうか。と思いながらも受け取る。部屋に戻り、その箱を観察する。 差出人の名前は、にじんでいて読めない。 開けてみれば誰からの荷物かわかるだろうと思い、開けると地球儀とルーペが入っていた。 箱の中には、さらに「神様セット」と、書かれただけの紙が入っていた。 そういえば息子が地球儀
君を傷つければ、いくぶんか気分が楽になるだろうか。 君の落ち度を、裏切りを、嘘を。 全て並べて、端から端まで攻め立てれば、この気持は消化できるのだろうか。 そんなふうに自分に問いかける。 わかってる。そんなことしたってすっきりしないって。結局。 でも、一般論にとらわれて、わかった気になってるんじゃないだろうか。だって、こんな状況になるのは初めて。人生なんていつもどんな状況も、条件は違うのだから初めてなわけで、一般論があてはまるかなんてわからないんだ。 だから、実は
ちいさい時、おとなになれば生きるのが上手になって、迷うことも、悩むことも、間違えることも、後悔することもなくなるって思っていた。 けれど、実際はどうだろう。四捨五入すればもう30で、孔子の言う「自立」の年齢が近づいている。なのに、毎日の些細な事に迷って、振り返ればどうでもいいようなことに悩んで、大切な決断を間違えて、判断を下したそばから後悔している。こどもの時からまるで変わっていない。 たくさんのことを経験して、たくさんのことを知っただけで、自分はおとなに近づいてきた気に
これまで、ものを書く仕事をしながら、ものを書くことをプライベートではあまりしなかった。 自分の書くことに価値なんてないだろうな。 と思ってしまって、気が乗らなかった。 仕事で書くのはクライアントのメッセージに価値があると思えるし、そもそもそれが仕事だから、なんのためらいも無く書けていた。 けれど、ふと思ったのは口頭でなにかを伝えることと、こうやって文字にすることは似ているようでまったく違うんじゃないか。ということ。 そして、口頭で伝えきれないことは果たしてどこに行く