台湾BL映画「君の心に刻んだ名前」を観た。
三ヶ月ほど前の話になる。その時に書いた文章を今もう一度読み返してやっぱりそうだと思うので、載せようと思う。
台湾のBL映画「刻在你心底的名字」(邦題「君の心に刻んだ名前」/英題「Your name engraved herein」)という映画をNetflixで観た。
はじめに言うと、これまで国内外を問わずBL映画をいくつか観たことがあったが、強く心に残ることがなかった。
この作品も、そのくらいのものに出会う心構えでみた。金曜の夜に。
そして、あまりに強いパンチを喰らうと人は興奮するんだな。と、今は思っている。
朝まで眠れなかった。
BLの要素から成り立つ主人公2人の関係の障壁はもちろん、この作品の重要な要素ではある。
でも、この作品に私が最も心を掴まれたのは別のところだ。
思春期を振り返った時、いちばんに抱く感情は人によって違うだろう。楽しさや輝き、苦しさや怒り、あらゆる感情が人それぞれに存在するはずだ。
この作品を通して描かれる主人公たちの「青春」には観る人によって変わる観え方があり、呼び起こされる感情がそれぞれに違うのではないかと感じた。そんな中でただひとつ共通しそうだと思ったのは、その呼び起こされる感情がどれもが生々しく、胸をつよく掴んでくる力があるのではないかという点だ。
私が呼び起こされた感情は、葛藤の苦しさだった。
十数年前、下手すれば二十年前に抱いていた、今の自分を形づくる心の基礎はなんだったのか、それを観させられたのだ。
焦燥感や劣等感。それとはあべこべに存在する根拠のない自信。その相容れない感情の葛藤をどうしたいのか自分でもわからなかった苦しさがあの時の私にはあった。
そんなものを持っていた自分自身を主人公の2人を通して観たのだ。
そして、それは今もなお自分の心のどこかに在って、無意識下で息づいていると気がついた。
気がついた途端に今度は、そんな自分の一部が、少し(ズルい)大人になった分だけ折り合いをつけて生きようとしている自分自身に問いかけてくる。「今」の自分は自分にとって「良い」のか。苦しんでいたことに答えは出てないのではないか。自分で自分を騙していないか、と。