詩性
手からビールの残り香のようなにおいがする。さっき除菌シートでデスクの埃を拭きとったせいだ。
窓の外で鳥が鳴いている。しかし1週間前くらいまで聞こえていたウグイスはぴたっと鳴きやんでしまった。季節の移ろうのを感じる。
『春琴抄 -ホワイトアウトする静謐-』の大阪公演の際に、天王寺の植木店で購入したサボテンはひさしぶりのつよい日差しを受けて生き生きとした碧色を僕にみせてくれる。
多肉植物を日光に透かすと、人間の手を透かしたときと同様に、中に管のようなものが通っていることがわかる。生命という装置だ。
次回公演『No. 1 Pure Pedigree』は、ぺぺぺの会のこれまでの研鑽の集大成です。
僕たちは結成以来、①観る-観られるの関係から脱すること、②ライブ(生)であることの追求、③遊ぶように演劇をつくること、の3つを標榜して演劇づくりをおこなってきました。
それで行き着いたのが「詩の演劇」です。
多くの人が上演台本をみて「これは詩だ!」とひと目でわかるようなテクストは、『夢の旧作』(2019/07-08)と、これから上演する『No. 1 Pure Pedigree』だと思います。でもどの作品にも詩性というものがきちんと具わっている。
では、その詩性とはいったい何なのか? を説明することは僕にはできない。詩性とは決して一義的なものではなくて、詩人ひとりひとりに多様に具わっているものだから。
その前提を踏まえたうえで、僕にとっての詩性をひと言で言い表してみると、「知覚する点の移ろいがもたらす断片の集積」です。
知覚という言葉は、五感を通して知り得た情報が知的に処理されることで覚えるもの、という意味で使用しています。
「知覚する点の移ろい」は「視点移動」と言ってしまえば単簡ではあるのですが、視覚に限定したくなかったため、知覚という言葉を選びました。
「点」は、日常に多く潜んでいます。〈僕〉も点だし、目の前にいる〈あなた〉も点です。
「最近つかれているなぁ。働き過ぎかなぁ」と〈僕〉を〈俯瞰する僕〉という存在も点です。鳥も点。サボテンも点。生命という装置、点。
これら知覚する点を移ろいながら断片を集積したものが詩性になり得る、と僕は考えています。
たとえばこちらはぺぺぺの会のさいしょの「ぺ」公演『一人称^自分』(2018/11)の上演台本からの抜粋。マサトとカイトが会話をしています。だけれども太字部分でカイトは唐突に「知覚する点」を移ろいます。
対象を俯瞰的に捉え、かつ、それがセリフとして発出されるのです。
また、『春琴抄 -ホワイトアウトする静謐-』(2021/03)では、
演者3はあたりまえに演者3としてセリフを発するのですが、最後の鉤括弧中は佐助の知覚に移ろわなくてはなりません。
と、今日は詩性に焦点を絞って過去作品を振り返ってみました!
次からは作品ごとに、個別に振り返ってみるのもおもしろいかも。