【短編小説】 「未来」と「将来」
「例えばさ、「未来ってなんですか」って子供に聞かれたらなんて答えるよ?」
「それは難しい」
「だって子供にわかる言葉で答えないといけないわけでしょう?」
「子供っていっても何年生?」
2年生だと、麻倉は答えた。そういえば麻倉は埼玉県にある小学校で教師をしていたんだった。
「で、麻倉先生はなんて答えたの?」
「明日のことだよ、って答えたの」と麻倉はちょっぴり自慢げに言った。
「明日?」
「そう、明日。わたしたちは、今、「今日」にいる。明日はまだ来ていない。まだ来ていないもののことを「未来」っていうんだよ、って」
*
確かに朝倉の説明は理に適っている。
「未来」を漢文的に書き下してみると「未だ来ず」になる。
まだ来ていないもの。それが未来だ。
一方で、「将来」という言葉もまた未来を表す言葉のひとつとしてもちいられている。
「将来」も漢文的に書き下してみる。
「将に来る」。今まさに来ようとしている先々のこと。それは時間的に、今現在から遠く離れたところにあるか、近いところにあるかどうか、でつかい分けるのではなくて、その先々のことについて自分が予期できているかどうかで、それは「未来」になったり「将来」になったりする。
例えば「将来の夢」とは言うが、「未来の夢」とは言わない。夢や目標を持った時点で先々のことがまったくの未明ではなくなった、予期できるものになったわけだから、それは「将来」だ。
僕には今を生きることで精いっぱいだ。というわけで僕の目の前には「未来」ばかりが広がっている。
*
君からの長い手紙を受け取った僕はいまだにその返事を書き倦ねている。
返事を書こうとしたけれど、半分くらい書いたところでいつも納得のいかないようになって便箋を破り捨ててしまう。
なにも破ることはないじゃないか、と思われるかもしれない。でも破って捨てるのは大切な儀式だ。
『ライ麦畑でつかまえて』で有名な小説家サリンジャーは自身の書いた原稿が気に入らなかったときに、かならずそれをビリビリに破り裂いて捨てた。
一生懸命書いたものを破り裂くのにはある種の快感が伴う。
サリンジャーはスランプに陥ったときに破るために書いた。来る日も来る日も自分の書いた原稿を破るために書いた。で、ある日、「これは破らなくてもいいかも」と思えるような原稿に出逢ったのだ。
彼はそうやってスランプを抜け出した。
とにかく書き続けること。僕はサリンジャーから学び、便箋にペンを走らせた。そして破り捨てた。
「これは破らなくてもいいかも」と思えるような瞬間は「未だ来ず」。