忘れえぬ、あの人
もうずいぶん時は経ってしまったが、皆を思いっきり振り回し、皆を烈火のごとく怒らせ、皆を「いくらなんでも どうかしてやしない?」と呆れさせ、皆を何度も込み上げるほど笑わせて、皆が何故だかわからないほど 寂しがらせた。
そんな人が 私の近くにもいた。
初めてB子の父(A男)に会った時
「父がね(私みたいな人を)大好きって。明るいから大好きって」
B子から聞いた。遥か過ぎた今になりましたが、嬉しかった 光栄です。
「ありがとう」と言いたい。
その気取っていても隠れない、自由で濃い迷惑キャラは、今も語り草になっています。
昭和初期の高度成長期、まだ戦争の傷跡が生々しくある難しい時代に、韓国から日本に留学していて(日本酒が大好き)双方の家族からの大反対を押し切り(とりわけ韓国の実家とは絶縁状態)日本人女性と結婚して3人の子(男・女・男)を持って暮らしていた。妻は都内で雑貨店を繁盛させ、子供を育てた。彼も東北の大学で、教鞭を取る事になって単身赴任で年の半分以上を暮らし、学生達と語り合い、夜は大好きな日本酒を心ゆくまで堪能する日々。
外では穏やかなインテリ紳士で、学生達の面倒見の良い、生真面目な研究者ですが、私生活の彼は、とにかく高潔で 頑固で、我儘。誰の意見も聞かない、扱いづらいったらない。家族が他人の前で彼の「酒の呑み過ぎ」を指摘するのは とにかく御法度(そもそも呑み過ぎなんです)。
そんな彼、A男が(好きなだけ飲酒生活の)単身赴任先で倒れた。脳出血で手術、命は取り留めたが左半身に麻痺が残り、大学を辞め 治療と 断酒、リハビリのため帰京。店舗の上の商品在庫が積み上がった 狭い自宅スペースに急遽 家族が同居することに。それぞれにストレスを抱えながら過ごす。徒歩圏内に夫と幼い娘とで住む1人娘のB子(几帳面)が、皆が匙を投げる父の世話をしていた。
A男「私は、何にも出来ない」
日本の韓国コミュニティとも交流せず、パソコンやネット 電気製品 新しい物は一切覚えようとせず、あれこれ会合の誘いも断り、病院さえ嫌がる。
A男「体が自由にならなくて、私はどこにも行きたくない。誰にも会いたくないんだ」
父 A男「私は、一歩も歩けない。何にも出来ない(全部やってくれ)」
口癖の父を、ある日 道端で少し待たせ、B子は忘れ物を取って来ると
「?」
一歩も歩けないはずの、父のコートの両ポケットが妙に膨らんでいる。本人はすまし顔で 帰りを急かす。
「えっ…ま・さ・か?」
道の反対側には 酒の自販機がある。急いで上がってった2階の台所から(使えないはずの)電子レンジのチン!と言う音が。折角なら、熱燗か。
孫(5歳)「おじいちゃん、ウソはついたらダメなんだよね」
A男「そうだよ。ウソはダメだぞ」
ひどい 教育者。
私はその話に、大ウケしていたが
B子「もう私(怒)許せない…」
そんな折、働き者の母が発見の遅れた大腸癌で逝去。自宅で母が辛い闘病中に(半身麻痺で)頼みぐせのある父が、悪気なく隣で
父「ね、リモコン取って」
母「はぁはぁ…もう…お父さん、お父さんは やだ」
全員からの大叱責。ま、やむなし。
息子達は、たまに会っても手に負えないので「父?絶対ムリ」
1人遺された父は、娘のB子家族と猫のミイと、マンションで同居するようになった。
毎週火曜日の午後2時に、区のスタッフが説明とリハビリに来るのだが、リハビリ嫌いでワガママな父
「調子が悪いから、断ってくれ」
「なんで?そんな勝手なことばっかり。皆にだって 予定があるのよ」
父娘で毎週 声高にモメまくる。
そんなスッタモンダ大騒ぎ中、猫のミイだけが、玄関でスタッフを静かに座って迎える準備。説明する動線の順番も熟知?玄関から寝室、次の浴室へも「ささ、こちらです。皆さん」仕事が出来る案内係みたいに 先回りして座って待っている。
バタバタした空気も 一連の流れも、人間の機微も読める猫?
「なんて賢い猫なんだ!」
「えっ、ミイちゃんたら、火曜の2時がわかるの?」
「ルーティンまでわかる?うわぁ、人間より頭良かったりして」
絶賛されても クールな猫のミイ。
スタッフが帰った後、
A男「ふん、ミイのやつ」
腹いせにミイの行く手の扉を 揶揄って閉めたりして、慌てるミイの「フンギャー!」にニヤリ。まぁ大人気ない困った爺 A男。
とにかくリハビリ大嫌いの父に、毎回困ってた時、リハビリチームに新人の女の子が入ったと説明される。
「でね、この子が(A男さんが)初恋の人に似てるって言うんですよ」
なんて紹介されたら、久しぶりに使わなかったカッコつけモードにスイッチが入った。新しいTシャツに自ら着替えて、全然リハビリを嫌がらなくなって、まぁ助かる。で、部屋の後ろで見守っている娘までを追いやる。
父 A男「お前も忙しいんだから、見てなくて良い。あっちに行ってろ」
娘 B子「はああ?」
血が繋がってるのが 何より恥ずかしいと、娘のB子めっちゃ怒ってた(笑)
数十年、家族や周りの友達が韓国に行く時は嬉しがり、あちこちに連絡をして手厚いサポートを欠かさなかった父のA男だが、自分だけは 皆を裏切ったという気持ちからか、頑なに韓国へ帰ろうとしなかった。
「妻に死なれ、私は今 こんな体になってしまい(反対された親族に)合わす顔もない」
どうにか説得して、車椅子の父を連れて、B子が韓国の家族に会わせるのと 亡き両親の墓参りにと、半ば強引に出かけた。
娘 B子「空港に行ったら全部世話してくれて、機内も快適。ただホテルで2人になると、父はホントに細々うるさくて、もう疲れてウンザリ」
父の長年の蟠りや心配は何処へやら、韓国の家族や親戚に大歓迎されて、温かく優しく懐かしく、両親の墓参りも心を溶きほぐしてくれた。すっかり感動して帰宅した数分後
父 A男「また行きたい。今すぐ また行きたい」
娘 B子「はああ?」
だから 意地張らずに、もっと前にどんどん行っとけば良かったのに。韓国なんて 隣なんだから。あんなに皆に言われてたのに、全然言う事 聞かないからよ、と。
「最期の旅じゃなかったの?24時間 あれやこれやと振り回されて、私はもう無理だからね」
プリプリ怒ってる娘のB子の隣で、
私「離れて長く母国を想う気持ちと、優しくしてくださったご家族や親戚の皆さん。お父さん、本当に胸が熱くなったのよね〜」
B子「そんなね〜、あの父と一緒に泊まりでなんて行ってごらん。とんでもないんだから。私が楽しい時間なんて全く、1ミリもないのよ」
数年でA男は坂道を徐々に下るように、聴力が衰え、喋らなくなり、食が細くなり、一回りも二回りも小さくなった。
病室で家族が父に声をかける度に、シュッ!シュッ!大好きだった日本酒入りのスプレーを口先に吹きかけた。臨終間近の顔がテカテカになるくらい日本酒の霧を浴びながら、
彼は静かに天に召された。
どうしているかなぁ。あの頑固に曲げない無茶苦茶が 時折 心をよぎる。あはは、またきっと皆に怒られてるかもしれないなぁ。
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