デーヴィッド・マークス 『AMETORA(アメトラ) 日本がアメリカンスタイルを救った物語 日本人はどのようにメンズファッション文化を創造したのか?』 読書メモ
ファッション批評は止まらない。その講義で知った『AMETORA』の読書メモ。かなりのボリュームがある書籍、日本のアメカジ文化によってアメリカの服飾のみならず、文化保存をしていた。そうした視点でアメリカ人の著者が日本の戦後からのファッションについてまとめた書籍。模倣から始まり、輸入、着こなし方、原宿からのストリート文化としての独自の発展、ジーンズに関する探求、上野アメ横。アイビー、アメカジの歴史が詰まっている。現代になり、日本のファッションの輸出ビジネスとしての可能性までに言及している。
冒頭から始まる一文、日本人のほとんどが認識していない。
日本は50年間にわたり、世界一ファッションにこだわる国という現在の地位に向かって一直線に歩を進めてきたのだ。(P. XII)
リオタールではないけれど、それまでの大きな物語が終戦とともに崩壊し、それぞれが言説を持たなければならなかった。急にそんなこと言われても分からないよ、というのが実のところだと思う。
文化がグローバル化していく過程の、大いに具体的な実例となる。(P.XVII)
文化。これはファッションの浸透、アパレルだけでなく、ライフスタイルの中で、どのように受け入れられ定着していくのか。ファッション史のみならず、こうした視点があるということに気づかせてくれた。
本業で、昨年まで大手アパレル企業へコンサルティングを提供していた。ライフスタイルへの業態の拡張、それについて明確な答えを持てずにいたけれど、文化のグローバル化という観点から紐解くと捉えやすい。
本書では、文化展開のみならず、文化の保存としての観点も提供している。
日本人が ー 暗黒時代にアリストテレスの自然学を護ったアラブ人よろしく ー 数十年がかりでドレスダウン・フライデーを毎日の習慣と化してしまったアメリカの代わりに、アメリカン・ファッションの伝統を護ってきたとする見方が一般化する。(P.XIV)
日本におけるアイビー
戦後日本が、アメリカ服飾文化を保存するきっかけはパンパンガール。
衣類不足と配給から生じた、こうしたファッションの真空状態のなかで、最初に西洋のスタイルを採り入れた日本人はパンパン・ガール ー アメリカの兵士を相手にする街娼たちだった。 戦後最初のファッション・リーダーは、パンパンガールであった(P.16)
相手のことを知るためには、相手と同質化するのが手っ取り早い。思考のシミュレーションもできるし。恰好、服を真似ることは自然なこと。服を真似るだけでは魂が籠らないからこそ、ライフスタイルに接続する。
そうした時代の変化に敏感に反応する人は必ず出てくる。
石津謙介は、それとは別のビジネスモデルを追求した ー 既製服である。(P.20)
ここで指摘されているそれとは、仕立服のことである。ビジネスマンは仕立て屋にスーツを仕立ててもらうようになったけれど、既製服を売るビジネスを考えた。
映画が影響をおよぼしたのは、主にウィメンズウェアだった。 日本の社会はすでに、女性が世界的なトレンドを追うことを容認していたからだ。 逆に年長の男性たちが映画を観て、ドレスアップを思い立つことはほとんどなかった。 ファッションに関する知識が皆無だった男性たちには、単なる視覚的な刺激以上のなにかが必要だった。 彼らはベーシックなワードローブの揃え方に関する、詳細にわたる説明を必要としていたのだ。(P.24)
ジェンダーなどの議論はあるけれど、マーケティングの観点から見ると、こうした差は見過ごせない。ファッションリーダーとしての映画俳優、ストーリーとしてのファッション、人々の意識を変えていくということは並大抵の努力と精神力では立ち行かない。
事実、既存の有力な購買層(収入が高い、中年男性)を発掘するのではなく、その予備軍に目を向けた。
まったく新しい層の消費者に影響を与えるチャンスが残されていた ー 若者たちである。 中年の男性は、雑誌から情報を得たとしても、それを仕立て屋に持ち込んだ。彼らが既製服を認めることはなかった(P.27)
そうした中で、売り物とは何か。問題意識を持ち、常に社会と接点を持っていれば、答えは自ずとやってくる。
まさかと息をのんでしまいそうな質素さだが、代々の資産家だった石津はすぐさま、アイビー・リーグのファッションと”弊衣破帽”の粋で荒々しいスタイルのあいだに共通点を見いだした。学生たちがボロボロの制服で、逆に自分たちのエリートぶりをアピールしていた20世紀初頭の現象である。アイビーの衣服は控えめさを演出することで、地位の高さをそれとなく伝えていたが、資産家の家に生まれた石津には、そうした気持ちが手に取るように理解できた。(P.30)
洒落た服装を求めて制服を拒んだ少数派の若者たちは、ひとくくりにして不良あつかいを受けた。 日本の社会には根本的に逸脱を嫌うところがあるが、そんななかでも戦後の時代の親たちはとりわけ、子どもたちが現代的な服装をすることに不安を抱いた。(P.35-36)
こうした反応を見ると、世代間の認識のギャップとは、いつの時代も巡るものだと思う。祖父と孫の世代が分かりあえるのは、人の考えが50年単位で変わるからなのだろうと思っている。
写真もイラストもついていないこの短い文章が、くろすの人生を一変させることになる。
アイビーの3つボタンスーツとの出会い
問題意識を持って、常に考えていると、突然、全てが繋がる感覚を得ることがある。それこそ雷に打たれたかのような衝撃、イラストも写真も必要ない、紡いだ言葉が形になる。受肉するということだろうか。元セブン&アイの鈴木俊文氏は、それをフックと呼んでいたらしい。
まだインターネットなんて無い時代、海外渡航も一般的ではないし、情報の収集には苦労したことが伺える。
彼らの情報源は、婦人画報社のオフィスからくすねてくるアメリカの雑誌に限られていた。そのページからくろすと穂積は、衣服を”アイビー”たらしめる要素を次々に発見した。(P.41)
そうした特徴を抽出し、理想的なアイビー・ジャケットのスケッチを仕立屋に持ち込むも、反応は「随分風変りな背広ですね」とため息をつかれる。結果は失敗。思っていることを図にしたとしても伝わらないことは多い。双方の熱量が必要だし、言葉のゲームが成立しないとならないだろう。
最終的には、アメリカ向けのボタンダウンシャツを作っている工場を見つけ出し、ジャケットを国内生産することにこぎつけた。
こうしてアイビーを作り上げたのはいいが、販売の流通に乗せる際に、また困難を経験する。バイヤーが知らないものを仕入れない。
仲介業者は若者たちがアイビーと関係を持つ邪魔にしかなっていない。バイヤーの意識が変わるのを待つのではなく、直接10代に雑誌からメッセージを届けた(P.49)
メディアを持つことの力。雑誌からの情報の吸収、若い人ほど吸収する欲求は強かっただろう。マーケティングでも、ターゲットを決めて、どういったメッセージを伝えるのか、しかもバイアスをかけずに。そうしたことが大事。この当時がどうだったのか知らないけれども、事業会社のこうした情熱と発信と突破力、そうしたものが弱くなってきた気がする。
雑誌は、号を重ねるごとに、よりアイビーらしさが強調されるようになり、前の号よりもっと目立ってやろうとする少年たちによって、その傾向にはますます拍車がかかった。 今で言うところのバイラルである。性別、年齢層などで単純なセグメント分けは難しくなった時代だけど、事業者が思うメッセージをきちんと伝える努力は、今でも有効だと思う。
こうして、雑誌によるアイビーの啓蒙が始まった。アメリカでは、アイビーを学ぶものはいなかった。それは、祖父、父、子へとファッションが伝わっていったためである。
くろすは、当然認識していたけれども、
日本への展開にあたって、マニュアル化する必要があった(P.58)
何しろ、新しいライフスタイルの導入だから。
いつの時代も狙った通りに、100%なるわけではない。みゆき族の着こなし、髪型のカスタマイズ、それを受けて、事業者側が柔軟に対応できるかだろう。ただ、それをそのまま受け入れていたら、競合とともに均質化してしまう。
着こなしの面ではこうしたマイナーな反逆を起こしていたみゆき族だが、その髪型は、くろすや穂積よりもずっと実際のアイビー・リーグの学生に近かった。こざっぱりとした若者の髪型というアイデアは、若者のファッションと同じくらい、日本にとっては目新しいものだった。(P.66)
事業者には、軸が必要。
「JUNやその他のブランドは、服しか作っていませんでした。でもわたしたちはライフスタイルを丸ごと売っていたんです」(P.101)
Tシャツの導入など、きわどいスタイルを導入しつづけた。
第2次世界大戦の敗北によって、伝統文化に対する敬意を奪われた彼らは、新たな価値観を切望していた。するとまさにぴったりのタイミングで、VANがアメリカ的な生活の、理想化されたバージョンを提示したのだ。(P.108)
本書では、これを文化的な裁定取引(アービトラージ)と呼んだ。これは同一的な商品の価値の差を利用して利益を上げる取引のこと。
アイビーの日本への導入、みゆき族の出現、VANの設立など、資料分析、関係者へのインタビューなどで仔細にまとめ上げられている。日本戦後の文化人類学のよい研究書だと思う。
VANの破綻
1970年代の日本が総体的に物質主義から一歩退いた結果、『平凡パンチ』はいよいよ窮地に追い込まれていた。(P.152)
高度経済成長期、1960年代から1970年代、脱物質化は日本にも萌芽する。アートの世界だけでなく、生活様式にも深く関わっていた。現代アートが社会と接続するというのは、このあたりにもヒントがありそうだ。
雑誌は、消費文化を応援するが、物質に依存しない層が出現した中で出版された雑誌『Made in U.S.A.』、カタログ的なモノの見せ方。
『Made in U.S.A.』はこうしたブランドの多くをはじめて日本の市場に紹介すると同時に、”カタログ雑誌”のフォーマットを確立した - 現在もなお、日本のファッション・メディアの基本となっているスタイルである。(P.158)
アイビーはファッションのシステムを作り上げた。雑誌『MEN'S CLUB』がヘビーデューティを紹介したが、それはアイビーと同様に、TPOという概念を教育するものだったのではないだろうか。平易な言い方だと、市場を作るというようなこと。
60年代のアイビー・ブームに比べると、70年代の日本の若者たちは、新しいファッションを着ることよりも、物的財産のコレクションとして、衣類を所有することに関心を持っていた。(P.171)
以前はティーンエイジャーが何年もお金を貯めて買っていたブランドの商品が今や、スーパーマーケットで安売りのチューブソックスを探す郊外の母親たちを相手に売られていた。倉庫に在庫が山積みされるようになると、VANは大規模なバーゲンを開きはじめ、それがまたブランドの価値を下落させた。しかも『Made in U.S.A.』と『ポパイ』が積極的に、コピーではなく輸入される”ホンモノ”を買うべきだと唱えていた時期だけに、VANにとうてい勝ち目はなかった。VANはとても革新的なイミテーションの作り手 ”ホンモノ”ではなかった(P.176)
市場の変化、それを見越せなかった。見越したとしても、どうすればいいのか分からなかったのかもしれない。積みあがった在庫を見たら、どうにかして消化しなくてはとあせってしまい、そうしたループに陥っていたのだろうか。この緊急事態宣言は、自社のビジネスモデル、ブランドを見直すタイミングになったのではないだろうか。
一枚岩が崩れたということか、様々なファッションが登場する。原宿のアパレル文化の萌芽。
クリームソーダはたしかに不良の匂いをさせていたが、方法論はVANと変わりがなかった(P.211)
1977年の暮れになると、ビームスやシップスのような店のおかげで、裕福なティーンはアメリカ製品の日本製コピーではなく、本物の海外製品を選べるようになった。(P.219)
こうした既存のビジネスモデルのうち、少し変えてみるというのが後続者が市場参入するときのポイント。取り扱う商品が変わったが、ビジネスモデルは変わらない。ニッチを探すことで参入することができるが、そのニッチがいつの間にかメインストリームになることはよくある。市場の先行者はニッチを作らないか、ニッチが成長する芽をつぶしておく。ただし、これは前世紀の話だと思う。
VANは廃業してしまった。
アイビー市場に400億円相当の空隙が生じると、ブルックス・ブラザーズはここぞとばかりに、日本に最初の店を出した。(P.222)
日米関係における転回点のひとつ。
「今日の若者のライフ・スタイルに於いて、『自分がどうあるべきか』などという問題は、さして大きな意味を持ちません。重要なのは他人からどう見られるかです」。(P.233)
渋カジの出現
研ぎ澄まされたファッション感覚は用済みになり、代わりに金のかかった無頓着さが脚光を浴びた。誰もデザイナーの名前は気にせず、誰も頭からつま先までを、単一のブランドで固めたいとは思わなくなった。(P.248)
そうしたファッションに対する意識の変化を受けて
”キュレーション”という行為に成功への鍵を見いだした(P.257)
目立ちたいけれど、他人からどう見られるかを気にする。そうした中で、他とはどう違うのか、それをわかりやすくメッセージすることが大事。
仲間たちとの差別化をはかるために、NIGOはア・ベイシング・エイプをインディーのヒップ・ホップシーンと連動させた。(P.262)
ブランドが大きくなると起こりうること。これって、ベンチャーでも同じことが言える。急成長してしまい、創業メンバーのケイパビリティでは事業運営が難しくなってしまうことがある。義理人情か、ビジネスか、リニアに成長した場合、そうしたことを突き付けられる。
ベイプが世界的なブランドになると、NIGOはもはやすべてを統制する、あるいは”排他性”を維持することができなくなった。前に進むには拡大するしかない。(P.272)
つまり、ブランドを適切なサイズにコントロールできれば、ブランド価値を維持しつつ前にすすめるのだろうか。スモールビジネスを維持することは、ビジネスを成長させることよりも難しい。常に上昇していかないと、墜落してしまう。そうした恐怖に打ち勝つ必要がある。
結局のところ、ベイプは外国の企業に売却される。
I.T.社との合意はNIGOにとって、複雑な思いを抱かせるものだったのかもしれない。だがそれは日本のファッション業界のグローバル化における、重要な瞬間だった。文化交流はもはやアメリカから日本という一方向だけではなくなっていた。(P.280)
情報転回の早さ、自分が思うよりも早く社会が変わる。社会が変わるから、自分も変わっていかざるを得ない。
海外から日本への情報経路を開け放ったメディアには複雑な感情を抱き、たとえば2010年の『インタビュー』誌では、現在のつねにつながっている世界は「すごく便利だけど、ちょっと退屈だ」と語っている。(P.282)
藤原ヒロシ、NIGOの物語は、なんだか映画を見ているようだった。
ジーパンの誕生
ビッグジョンの前身、マルオ。その創業者の尾崎が社内の若手に問いかけた。
尾崎はどんな服をつくれば、マルオの窮状を救うことができるのかと訊いた。柏野と大柴はともに間髪を入れず、「ジーパン」と答えた。またの名を”GIパンツ"という、アメリカ人には”ブルージーンズ”と呼ばれていたズボンである。(P.113)
その当時のジーパンは、おいそれと手に入らない高級品であり、闇市に出回るといういかがわしさまでついていた。 朝鮮戦争の休暇で東京に溢れていたアメリカ人がはいていたブルージーンズ。彼らを象徴する服であった。それは、彼らが、いかがわしい場所に出入りもするため、悪いイメージもセットになる。
何十年か時間が必要だったけれども、ジーパンはコモディティとなった。
日本のブランドは、老若男女、あるいはファション好きとファッション嫌いを問わず、ありとあらゆる人々にデニムを履かせることに成功していた。しかしこうした遍在化は、かつては魔法のような輝きを放っていた青いコットンのズボンを、安っぽい日用品と化してしまうことにもなった。(P.290)
ジーパンのブームは異常な加熱を見せていたことが分かる。
日本、イギリス、そしてフランスのバイヤーは、アメリカ人の鼻先から、この国のデッドストックを大部分かっさらってしまう。(P.295)
アメリカから輸入された中古衣料の重量は、2位の輸入先だったカナダのおよそ23倍。日本ではずっと英国産のファッションが影響力をもっていたにもかかわらず、イギリスからの輸入量は、アメリカのはるか後塵を拝していた。 (P.298)
ここまでの人気のデニム、既に在庫しているものしかなかった。詳しい事情は分からないけれど、デニムの生地を作る技術が失われていたみたい。技術が進み過ぎて、デニムのような擦れて色落ちするような染色ができなくなっていったらしい。
ドゥニーム 山根氏が、思ったのは自前で作りたいという思いもあるだろうけど、もっとピュアな思いが出発点だったような気がする。
「アメリカの物をパクるだけじゃなくて、日本人の僕が見たアメリカということで日本の感覚というものをもっとだしたいなあ」
カタログの写真撮影に招聘したアメリカ人カメラマンのエリック・クヴァテックにブランドの考え方を伝えた。
「日本的な品質とはどういうものなのかを、よりよく理解できるようにと、彼らは僕を奈良に連れ出し、神社や仏閣を探索させた。ほかにもお茶の師匠と一緒に過ごしたり、天然藍の染色工場を訪ねたり、アンティークな日本の織物の専門家と一緒に過ごしたりしたよ」
セルフエッジのキヤ・バブザーニは、オリジナルを上回る品質で再現していることに心を奪われてしまった ということ。アメリカでも売ってほしいという彼の願いを、多くのブランドは聞き入れようとしなかった。「『リーバイスがあるのに、どうしてうちのブランドをほしがるのですか?』といわれたのさ」だって、ここでも認識のギャップがあるのかもしれない。こうしたギャップが参入障壁にもなるけれど、このあたり。行けると思ったら、後から後から、どんどん参入してきて、たちまちレッドオーシャンになってしまう。
デニムの洗い方について 、特異な歴史の逆転を示唆する。なんと、アメリカ人が理想的な色落ちのために洗濯の方法についてマニュアルを必要としていた。1980年代、90年代の日本のように。
ここでも文化的転回があるのだね。
スーツ再考
トム・ブラウンに資金提供して救ったのはストライプだった。『ポパイ』の編集長、木下孝浩は「スーツを着る男の格好良さを、再提案したことがトムの功績だと思う」と語る。
ただ、スーツを着るという文化は風前の灯火のようにも見える。
グーグルはその創立宣言のなかで、「スーツがなくても真剣になれる」と謳っていた。(P.330)
ドレス・コード展で見たスーツの展示、貴族の部屋着としてのルーツを持つが、既にレガシーな様子を感じ、墓場のような印象を持った。
スタイル的な反抗を開始するサイト
・スーパーフューチャー
・ハイパービースト
→ ストリートウェアのファンにデジタルの拠点をもたらした
ドレスアップという失われた技術を学ぶウェブサイト
・アスク・アンディ
・スタイルフォーラム
・写真ブログ ザ・サルトリアリスト
ファッションにおける知識の空白状態が発生した中で、洋服は一番投資効果は高い。なぜかというと、人の目にさらされるからという主張。これはスパイラルのようにグルグルと展開していくファッション・アパレル業界へのアイロニーのようにも聞こえる。
ステューシーのクリエイティブ・ディレクター、ポール・ミットルマンの指摘に気づかされた。
「日本には製造のベースがあることを、多くの人々が過小評価している。ヨーロッパには実のところそれがない。でも、そこが日本なら、200ヤードのカーキ生地を持っている人間と、その素材をパンツにする工場を見つけることができる。そして、そのパンツは完璧に仕上げられるんだ」。(P.343)
今、こうした縫製工場が存続の危機に瀕している。それを保護しようとする動きもあるけれど、保護されたものはその状態で固定化されてしまう。何が正解なのかは分からないけれど、こうした時代を越える工夫ができることも必要だと思う。そうした戦略、生き残りを他人任せにしてはいけない。
とりわけこだわりの強い者が、ディテールの達人になる。こうした若いファッション・ファンの多くはやがて、独自のブランドを立ち上げ、その際にはこうして身に付けた細部に対する意識が、より高品質でより”正統的”な、独自のアメリカン・ファッションを生み出す原動力となった。彼らはもっともっと型に近づきたいと願っていたのだ。(P.347)
日本を魂のないコピー品と批評したことは、すでに時代遅れ。シャツをさわれば分かる。生命を宿している。 日本のデザイナーは、ほとんどが国内の市場という狭い視野でしか自分たちの仕事をとらえていない。