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ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』 読書メモ

先日のゴドフリー『コンセプチュアル・アート』の再読に引き続き、リオタールの『ポスト・モダンの条件』を手にした。未だにモダニズムが継続しているとか、既にポストポストモダニズムであるとか議論があるけれど、ひとまずリオタールをおさえておかねばならない。

モダンは、大きな物語としてリニアな世界にあった。ポスト・モダンとは、そうした大きな物語からの決別と、並列的な並行な世界が出現したとする主張と認識している。

ポスト・モダンとは何か?

高度に発展した先進社会におけるの現在の状況である。われわれはそれを《ポスト・モダン》と呼ぶことにした。(P.7)

序論に短い定義が出てくるが、何のことかさっぱり分からない。

モダンが19世紀末からの近代化を表していることは疑いの無いことだろう。ここでの近代化はフランス革命、産業革命あたりによって引き起こされたと考えるならば、モダニズムを大まかにとらえることができる。こうした近代化が二度の大戦を経て、1950年代頃まで継続し、そうした主義に疑いがもたれた。ポスト・モダンとは、モダンの次(もしくは後)として、モダニズムによって発生した科学、文学、芸術のゲームのルールに与えた様々な変化の文化の状態を指すという。こうした変化のことを物語の危機として位置付けている。つまり、物語とはモダニズムが浸透するにあたっての共通認識とか、そうしたものだろう。大きな物語という表記もある。

序論の最初のページで出てきている、こうした短い文、これをよくよく理解しておかないと、この先を読んでも、全く意味が取れない。キーワードとして、物語の危機をおさえておくことがポイント。この二つのキーワードとそれが何を指すのかを、それこそ紙に書いて、机に貼った上で読み進めるのがいいと思う。といっても、読み進めるうちに、解釈の振れ幅ができるのだけど。。。


科学と物語との葛藤、科学は言説を必要とし、言説は哲学が担う。

科学はみずからのステータスを正当化する言説を必要とし、その言説は哲学という名で呼ばれてきた。このメタ言説がはっきりとした仕方でなんらかの大きな物語 - 《精神》の弁証法、意味の解釈学、理性的人間あるいは労働者としての主体の解放、富の発展 - に依拠しているとすれば、みずからの正当化のためにそうした物語に準拠する科学を、われわれは《モダン》と呼ぶことにする。(P.8)

分かったような、分からないような。
大きな物語とは単純に哲学だけではなく、”富の発展”あたりの表現から資本主義も関連するだろう。もうひとつ、はっきりとメモしておかないといけないのが、《啓蒙》というキーワード。

真理の価値を持つ言表の送り手と受け手とのあいだのコンセンサスの規則は、それがすべての理性的精神の合意の可能性という展望のなかに組み込まれたときに、はじめて受け入れられることになるだろう。そしてそれこそ《啓蒙》という物語だったわけであり、その物語においては、という主人公は、倫理・政治的な良き目的、すなわち普遍的な平和を達成しようと力を尽くすのである。(P.8)

恐らく字面通りの意味だけではないだろう。そもそも"知"は何を意味しているのか。先ほどの大きな物語の中には、啓蒙は含まれていなかった。つまり、物語と呼ぶべきものが複数あるのか。その後は正義と真理が大きな物語に準拠すると続く。これは言語のゲームとして語られる。そして《ポスト・モダン》においては、啓蒙に対する不信感が出発点。様々な分野にわたって、大きな物語に依拠したモノの考え方に限界がきているかのような、そんな思索がめぐらされている。

すごく大雑把にまとめれば、物事や価値観の大きなモノサシ(共通認識)が無くなってしまったということ。1970年代の高度経済成長、大量生産、大量消費、高度なメディアの発達を考えると、まだ多様性は乏しいように思うけれど、2010年代の多様化の萌芽が、この頃にあったとみることもできそう。

キーワードがいろいろと出現する。言語要素、構造主義あるいはシステム理論、ニュートン的人類学、メタ物語、言語ゲーム、コンセンサス。これは字面通りにとればよいのか、メタファーなのか。文脈はもとより、自分自身の知識によっても受け取り方が変わってくる。だから、本書は捉えどころがないと感じるのかもしれない。

ポスト・モダンの知は、その根拠を専門家たちのホモロジー(homologie)のうちに見出すのではない。その根拠は、むしろ発明家たちのパラロジー(paralogie)のうちに見出されるのである。(P.11)

社会的関係の正当化と科学の活動におけるパラドックス。この他の個所にも原子的なという記載があり、より細かなレベルでの構成、構造について着目すべきともとれる。

報告者は哲学者であり、専門家ではないということを述べておこう。専門家は自分が何を知り、何を知らないかを知っているが、哲学者はそうではない。専門家は結論し、哲学者は問いかける。それは二つの異なる言語ゲームである。この報告においては、それら二つの言語ゲームは混ぜ合わされ、その結果、どちらも充分にその目的を達してはいない。(P.12)

この辺りまでが、序論である。なんとも読み進みが難解な書籍だと思う。


第一章は情報知、社会がポスト・インダストリー、文化がポスト・モダンとする。本書では、"知"、"知識"、"情報"とそれぞれのキーワードが出現している。ここでは、これらを同一とみなして一旦捉えることにした。

将来においては、情報を支配するために争い合うということは充分考えられる。ここには、工業・商業的戦略にとって、そして軍事・政治的戦略にとって、新たな領野が開かれているのである。(P.17)

人が把握できないほどのデータ量が集積したときに、(Googleが証明したように)思いもかけない富を生み出す。GDPR を始めとした個人のプライバシーを守るという法律は、実のところ、国家間の情報支配への抵抗なのかもしれない。

多国籍企業の出現による、経済と国家の関係の問題。資本はあっという間に世界を駆け巡る。大前研一氏が指摘しているのはグローバル経済、サイバー経済、マルチプル経済であるが、1970年代の本書の出版時点で、それを予見するかのような記載に、素直に驚く。資本流通は、更に進化してマルチプルの世界を出現させたということだ。国境を超えて投資されていく。アートマーケットにも接続する考え方だろう。

多国籍企業の投資が国家、国民を逸脱しているということ。

例えば、IBMのような企業が、地球周回軌道の或る帯を占有して、そこに通信衛星そしてまたデータ・バンク衛星を乗せることが認められたとしてみよう。その場合、いったい誰がそれを利用するのか。いったい誰がチャンネルやデータに禁止制限を設けさせるのか。国家だろうか。それとも、国家は他の多くの利用者と同じくその一利用者ということになるのだろうか。(P.18)

IBMによってではないけれど、2020年の現在、こうしたことは既に出現している。

驚くべきは1970年代の終わりに、こうしたことを予見しており、経済、ひいては資本主義と情報に関する戦略を取り巻く諸問題に対する国家の在り方に対する問題提起をしているということ。

若干、皮肉に感じるのは、物質(コンピューター・ハードウェア)に拘ったIBMが今では存在感を小さくし、非物質的な体験(FacebookによるSNSの繋がり、Googleによる情報の収集と検索)を提供している巨大企業にプレイヤーが取って代わってしまったこと。とはいえ、どちらもアメリカから出てきているという点も注目する点だと思う。知のゲームとは、こうしたプレイヤーに覇権が取られてしまうことを予見していたのだろうか。

本書では、貨幣と同じネットワークに乗って情報が流通していく事態を想像している。これを《社会の情報化》というシナリオと呼んでいる。現在のインターネットのことを指している。この当時は軍事用としてのネットワークだった。貨幣ネットワークは、恐らくSWIFTのことを指しているのではないかな。

ブロックチェーンによる仮想通貨、これは企業さえも存在感を薄くしている。こうして見るとインターネット以来の革命と呼ばれる所以は、ポスト・モダンから始まったのだろう。だからこそ、各国中央銀行は、警戒感を強めているのかもしれない。ポスト・モダンは一気呵成に変化するのではなく、それぞれの分野において、徐々に表れてくる。


科学的知が知のすべてではない。物語的知と対立しあってきた。

情報化時代における知の問題は、いままで以上に政府の問題なのである。(P.26)

科学的知が政治権力に従属しているように見える。新しいテクノロジーの出現、権力間の対立抗争の主要な種のひとつになる可能性がある。知と権力が同じ問題の表裏として現れてきた。

1990年代初頭のインターネットの商業利用開始、メディアが市民の手に渡った。それまでは一企業が提供するパソコン通信コミュニティがあった。これはアマチュア無線のコミュニティのようであり、コミュニティを覗くだけでも専門的知識が必要で、まして参加するとなると、そのハードルは更に高くなる。初期のインターネットこそ使いづらさや、情報の無さを指摘されていたけれど、インターネットの利用のしやすさ(参入のしやすさ)は、その後の30年で目覚ましい発展と分岐を見せた。最早、情報の流通に権力ができることが、それほど多くなくなったようにも見える。(ポストトゥルースの問題はでてきたけれど。)今のインターネットはデータ資本主義とも取れる様相ではあるけども、いとも簡単にプレイヤーが入れ替わる可能性も秘めている。


言語ゲーム、それをチェス・ゲームに例える。駒の動き方、特性、一群の規則によって決められるルール。そうしたゲームを言語にあてはめて、言語ゲームとするが、それは正当化の根拠を持っていない。プレーヤー同士の明白あるいは暗黙の契約に基づいている。規則がなければゲームは無いということ。ある規則が変更された場合、ゲームの性質を変化させてしまうため、ある言表が規則を外れた場合、それはその規則に従ったゲームには属さない。つまり、ゲームは放棄されたことになる。すべての言表は、ゲームにおいて打たれた《手》であるということ。こうした言語行為は、コノテーションからもぎとった勝利であるとする。これはディスカッションのことだろう。

十九世紀の科学が《検証》(vérification)と名付け、二十世紀の科学が《反証》(falsification)と呼ぶものを支えている。それが、送り手と受け手というパートナー間の討議に対して、コンセンサスの地平を与えることを可能にする。(P.65)


言語ゲームが、完全情報ゲームになる。それは、どのようなことなのだろうか。

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