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「がらんどうの空」と息子の恋もよう
こんにちは、詩のソムリエです。
子育てのなかで考えた、詩のはなしをちょこっと話す「こどもと詩」シリーズ。モテはじめたらしい息子とお散歩しながら思い出した、強烈に美しい詩を紹介します。
息子、モテ期到来?
保育園の連絡帳をひらいて、ふふふと笑みがこぼれた。連絡帳といっても紙のノートではなく、アプリを通じ写真つきで送られてくるのだが(去年できた保育園なので何かと最新)、女の子がシロツメクサを息子に差し出している写真がついていた。その一生懸命さがほほえましい。そして保育士さんが、「◯◯くん、モテていますよ」と笑顔の絵文字つきでコメントをしている。
息子は、1歳2ヶ月。トコトコと歩けるようになり、保育園から帰ってきたら手をつないで家のまわりをぐるっとお散歩するのが日課だ。「お散歩いこっか」と声をかけると、「ん!」と手をつなぐよう要求する姿が可愛らしく、こんな姿もいつまで見られるんだろうと思う。
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「きみ、モテてるんだって?」息子にはまだ通じない。3月末生まれの息子は、保育園のすみれ組でもいちばん小さく、ぽんぽこお腹にムチムチの手足で、乳児寄りの幼児というようすだ。指をしゃぶりながら歩いている姿は、「赤ちゃんが歩いている…」という感じがする。
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一方、お花をわたしていた女の子は、同じ組だけど、とても大きく見えた。女の子だから成長は早いだろうし、なんといっても、「襁褓(おむつ)をしていても女」というもんね。まだきみに恋は早いか。
どんなに愛されていても、いつかは待ち受けるもの
息子のじんわり熱く、やわらかい手を握って歩きながら、山本太郎(1925−88)の「散歩の唄」という詩を思い出す。「あかりと爆に」というサブタイトルがついている。小さい子どもたちと父(おそらく詩人自身)の散歩中の詩だけど、タイトルのようにのほほんとした詩ではなく、強烈な印象を残す作品だ。
右の手と左の手に
ぶらさがった子供たちが
上をむいて
オトーチャマという
俺も上をむいて
誰かの名前を呼びたいが
誰もいない
はじまりの4行はありふれた親子のシーンだが、自然と「俺」の内面に向かい、内なる声を聞く。親になると、子の前では自分が絶対的な存在にならなくてはならないのが、自分を強くしてくれる一方で、たまにしんどく、「誰かの名前を呼びたいが/誰もいない」という心細い気持ちになるのもわかる。
俺の空はみごとにがらんどうで
鳥に化けた雲ばかりが
飛んでゆく
すばらしいじゃないか
このがらんどうのなかで
お前達のオカーチャマが
一本のローソクのように
燃えていたのだ
燃えてふるえて俺をまっていたのだ
「俺の空はみごとにがらんどう」から、「すばらしいじゃないか」という転換になぜ、と思うと、「お前達のオカーチャマ」が、「燃えてふるえて俺をまっていた」という。はじめて読んだとき、衝撃的で目が釘付けになった。
そうして「俺」は子どもたちに心のなかで語りかける。「お前達もいつかは/がらんどうの空をもつだろう」と。
がらんどうの空、という言葉を噛みしめる。いつか、つまりは後天的に持つものなのだ。それは、たとえどんなに親が子を大事にし、愛そうとも、がらんどうの空ー空虚で、みじめで、孤独なーを持つことになる、ということだと思う。父である「俺」の言葉は、こう続く。
そのときは ひとりびとりの
たしかな脚で立って歩いて
お前達の焔をお探し
「もうオトーチャマの顔はない」と言いながら。
自分だけの焔と出会えるまで
何回読んでも、ぐっと胸にせまる詩だなぁと思う。『おや・こ』(小峰書店)というアンソロジーのなかで偶然出会った詩だけど、「親子」の枠をゆうに飛び越えて、人間のありさまを突きつけられる。
そうなのだ。どんなに愛情をふりそそいでも、子どもはいつか離れていくし、「がらんどうの空」をもつことになる。人生に、苦しみや挫折や、孤独や、不条理は、避けられない。北原白秋の甥にあたる山本太郎は、終戦の一ヶ月前に魚雷の特攻隊に配属され、死の淵をなめたという。
けれど、そんな「がらんどうの空」に、灯りをともしてくれる人がいる。その描写があまりに美しく、心が震える。だからきっと、がらんどうの空のしたで生きることになっても、人生は生きるに足るのだ。その光が、闇を照らし、冷えた手をあたためてくれる。だからいつまでも一人ではない。
息子は、わたしの手をふり払い、石を拾う。散歩中の犬を指さして、「わんわ!」とニコニコしている。
![](https://assets.st-note.com/img/1687332067404-o5ldjAYSHL.jpg?width=1200)
まだ恋は早すぎるかもしれないけど、いつか「焔」に出会えるといいね。もう歩くのがイヤになったらしく、だっこ!と両手を広げて要求する息子を抱き上げる。すでに10キロを超えて、ずしっと重い。まだまだ赤ちゃんでいてね、と思いつつ、すぐに彼も幼児になり、少年になるだろう。オカーチャマにできるのは、「たしかな脚で立って歩いて」いけるように、見守ることかなぁ。
いつの日か、きみの焔に会えるのが楽しみだ。
それは人かもしれないし、熱中できるなにかかもしれない。
***
これまでの「こどもと詩」シリーズ
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