エッセー「どいつもこいつも麻薬中毒」& ショートショート「人類野生化再生プロジェクト」
エッセー
どいつもこいつも麻薬中毒
~ギャンブル依存症を考える~
痛みには「肉体的な痛み」と「精神的な痛み」がある。肉体的な痛みは負傷や炎症などに伴う苦痛で、精神的な痛みは心が傷ついたときに伴う苦痛だ。そのどちらとも、神経の感覚なので、感覚器官の個性によって鈍感であったり敏感であったりする。肉体的痛みの場合、人によっては傷の痛みをあまり気にしない者がいれば、ちょっとの痛みで泣き叫ぶ者もいる。精神的痛みの場合も、大きなショックでもめげない者がいれば、ちょっとのショックでめげてしまう者もいる。しかし個人差はあれ、どちらも過度になると耐えられなくなる。
生物は、内外の刺激によって蠢いている。この刺激に対する「鈍感・敏感」はあくまで感覚器官の特徴で、生来的なものだ。快・不快は生物の行動基準で、どんな下等生物でも「快」と「不快」の環境が両側に存在すれば、「不快」を避けて「快」の方向に移動する。例えばその「快」が餌や異性なら、そっちの方向に移動することになる。しかし自然界は「快」ばかりの環境ではなく、「快」と「不快」が入り乱れ、ときには「不快」ばかりの環境に置かれることもある。すると生物は不快な環境でも何とか生きていくために、慣れることを学習する。住めば都というわけだ。慣れることは「鈍感」になることに他ならず、そうなれば懲罰房の中でも生きていける。これは「不快」が徐々に劣化することを示している。
ならば「快」も徐々に劣化していく。「快」の中で慣れてしまうと、それに鈍感になって新たな刺激を求めるようになる。薬剤耐性もそうだが、幸福耐性もそうだ。薬剤耐性は、体が薬に慣れてしまって効かなくなることだが、幸福耐性は、心が幸せに慣れてしまって新たな刺激を欲する現象だ。刺激はたとえ厳しいものでも、耐えているうちに脳内麻薬が出てスリル感のような快感に転じたりする。小人閑居して不善をなすというが、幸福な状態でも閑居していると、物足りなくなって何かをし始める。動物も植物も刺激に反応せず、動かなくなったときは死んだときで、動きが速いか遅いかの違いだけだ。大宇宙からバクテリアまで、常に刺激を受けて動いているのが性(さが)なら、幸せの中に飛び込むことも不幸せの中に飛び込むこともあるわけで、それが生きてることの証だ。人間は玉つきのように快と不快にぶち当たりながら動き回り、時には快の湯船に浸かって長湯となり、湯あたりして今度は不快の冷水に飛び込んで体を冷やし、切りのいいところで湯船に戻ろうとするが、最初は心地よい水風呂が底なし沼だったりして、深みに嵌まってしまう。賭博で最初は儲けさせてもらい、最後には借金が7億円なんて失態は、そんな類の話だろう。
「不死身」は、どんな打撃や困難にも挫けない人間を指す言葉だが、刺激に対する基本的感性は「繊細」の反対である「鈍感」に違いない。自分の血を見て気絶すれば、戦いに勝てない。常に戦っている動物は狡猾な神経の持ち主だが、傷や痛みに対しては鈍感で、深手を負っても人間ほどには泣き叫ばない。叫んでも救急車が来るわけではないし、自力で再生するか、死ぬかの二択しかないことを知っているからだ。子を失くしても、本能としての範囲内でしか悲しまない。深手も別離の悲しみも、苦痛の叫びは捕食者に感知され、攻撃される可能性がある。人間だって戦場で負傷すれば、泣き叫ぶことはしないだろう。とどめを刺されるからだ。
動物の生きる場が弱肉強食という戦場なら、それは本能と考えれば良く、動物的精神力と妄想することも可能だ。しかし、悠久の戦いで培われた本能の知恵が脳内麻薬というホルモン物質を生み出し、それが負の感情や痛みを和らげてくれる。敗戦直後の労働者は軍が保有していた突撃用のヒロポン(スピード)を打って、あくる日に苛酷な現場に戻っていったが、動物では脳内麻薬がその役割を果たしている。
当然だが、動物の片割れである人類もそれを引継いでいる。脳内麻薬は、高邁な精神とは真逆の本能に組している。人は臨終のとき、脳内麻薬のおかげで一切の苦痛から解放されて天に旅立つ。恐らく動物たちもそうだろう。ホメオスタシス(恒常性)の中に脳内麻薬が組み込まれているなら、過剰に分泌されれば異常な行動も出てくる。脳内麻薬が売人から買う麻薬と違いはないとすれば、人間は常に麻薬環境の中で行動し、麻薬を買おうが買うまいが、ハイな気分も鬱な気分も、博打依存症も、すべてが体の内外から供給される麻薬に支配されていることになる。過剰な脳内麻薬でハイテンションになるとお巡りさんが駆け付け、外から麻薬を買っても牢屋にぶち込まれる。
人間を含めた動物の行動基盤は、基本的に(脳内)麻薬と言っても過言ではない。だから、賭博依存症も性依存症も、依存症と名の付くあらゆるものに脳内麻薬が関与している。もっと広めれば、人間の感情や行動を操っているのは脳内麻薬だと言ってもいい。麻薬中毒と良い子の違いは、前者は金を払って外から配給されているだけの話だ。当然、脳内麻薬の生理的限界を超えた麻薬が外から入ってくれば、ホメオスタシスは破壊され、自身は体調を崩し、外に対しても異常行動となって迷惑をかける。
しかし、人間は他の動物と違い、脳内麻薬に支配される本能を覆う形で、立派な精神が存在する。その精神は、他者や社会との関係性が複雑に絡んだ籠のようにでき上がっていて、そこから負の感情や苦痛を取り巻く状況を熟慮した「我慢」という行動が出てくる。大人が痛いのを我慢するのは、敵を意識してのことではない。周りから「子供みたい」と思われるのが嫌だからだ。これは世間体の一部だが、その後ろには法律というものも存在する。しかし法律は神様ではなく人間が作ったもので、国や地域、時代によってチェンジする。だからアメリカなどでも、マリファナやスポーツ賭博が解禁された州もあれば、禁止されている州もあるわけだ。民主主義国家では、麻薬大好き人間、賭け事大好き人間、それに絡む税金大好き(地方)政府が大勢を占めれば、解禁されるということだ。その結果、依存症も増大する。
物欲も金銭欲も、動物的食欲のアレゴリーに過ぎず、本能的なものだ。だから断食すると、食欲も物欲も金銭欲も消失する。博打癖も食癖の仲間なら本能的欲望だが、過剰になると身の破滅を招く。食い過ぎると人体の生存システムが破壊され、賭博で負け過ぎると社会における個人の生存システムが破壊される。それを防ぐには「我慢」という精神力で制御する以外にないが、それなりに精神的負荷はかかる。その痛みに耐えられなくなると欲望が我慢に勝り、ダイエットは放棄し、再び賭場に通うことになる。これで欲求不満はなくなって一時的に精神は解放されるが、未来を考えた精神的目標とは相反することになり、身の破滅に近付いていく。これを国に当てはめると、目先の景気のことばかりを考えている政府も国民も、脳内麻薬の支配下で動いていて、「地球温暖化」という未来の不幸を考えた「我慢」を持ち合わせていないことになる。欲望が我慢に勝れば、身も世界も破滅する。現在、人類は「快」依存症候群だ。そこから離脱する唯一の方法は、「住めば都」という諺の真意を探求することだろう。
病院では「痛い痛い」と訴える患者もいれば、痛いのにじっと我慢している患者もいる。僕は大部屋に入院したことがあり、二つの事例を目にした。一つは簡単な脱腸の手術をした老人が「痛い痛い!」と声を上げて看護師を困らせた事例で、恐らく軽い認知症に罹っていたのだろう。彼は大人だったが、傍から見ると、まるで大人のプライドを捨てたかのように叫んでいた。もう一つは、臓器の全摘出手術を終えた老人で、痛いだろうに平然として声も発せず、明くる日にはおぼつかない足取りで歩行も開始していた。当然のこと、叫ぶ患者には鎮痛薬が処方され、我慢している患者には処方されない。痛みは症状の一つなので、我慢すれば良いということもない。どこかで大出血を起こしているかも知れないからだ。もちろん、こうした痛みに出される薬は、市販もされている「カロナール」や「ロキソニン」の類だ。
ところが、その痛み止めに麻薬を処方されている中年の患者がいた。彼は末期癌に侵され、すでに歩行が困難な状態だった。医者も匙を投げ、誰も助けてくれない状況に陥ったとき、人間は自分が動物と変わらないことを知る瞬間がある。衆獣環視の中、草原に寝転がる深手のシマウマは、自力で立ち上がることができずに死んでいく。同じように医療スタッフの見守る中、末期癌の患者は何の治療も受けられずに息を引き取る。医者はそんな患者に緩和ケアとして麻薬を処方する。それにより、死に至るまでの苦痛をいくらか取り除くことができるからだ。
ドラえもん『のび太の地球交響楽』というマンガ映画が流行っているが、音楽が世界中からなくなった話らしい。しかしソニーのウォークマンが発明される前は、世界中がこんなに音楽で満たされてはいなかった。音楽は感覚的な刺激で、聞いていて心地よくなる刺激物なら、これはタバコと同じ合法麻薬の一種ということになる。昔会社勤めをしていたころ、新しく入った上司がBGMがないと仕事のできない人間で、閉口したことがある。多分僕は中世的人間だったのだろう。しかし、ほとんどの人は、音楽が麻薬の一種であることを知らない。昔元日の朝に、遠くから獅子舞の笛太鼓の音が聞こえてきて、家人は小銭を用意したものだ。そんな時代には音楽も珍しく、家の居間でラジオから流れてくるぐらいなものだった。音楽が麻薬なら、それには依存性があり、現代人のほとんどが麻薬中毒にかかっている。ならば現代人と中世人では、脳の構造も大分変わっているに違いない。
「音楽療法」という療法があるが、穏やかな音楽は薄っすらとした麻薬で、患者の感情と彼が直面している精神的苦痛の間に入り込み、「安らぎ」という名の緩衝材の役割を果たす。一方、激しい音楽は興奮刺激で鬱の心に振動を与え、カタルシス効果を発揮してくれる。その両方とも緩和療法で、精神的苦痛を根治するものではない。だから、患者の心が自分の精神的疾患部分を直視するのを妨げ、強い心を培うリハビリの妨げにもなりうる。想念も精神も、心の深い部分に鎮座している。そこに入る手段は精神修養で、僕の場合は沈思黙考だと思っていたから、会社のBGMはその妨げとなって閉口したわけだ。世の中、サーフボードに乗って軽いノリで生きていくには、確かに音楽は適度な波形で支えてくれるツールに違いない。しかし音の波の緩衝材の下には、人生の荒波がある。プロのサーファーは、正の波、負の波を的確に把握して乗り越えていくが、それに必要なのは、肉体と精神の力だ。それらは鍛えなければ得られず、安らぎという逃げの姿勢ではなく、リハビリという多少苛酷な攻めの姿勢が求められる。
「快」の環境に長く浸かっていると、物足りなくなってさらに刺激的な「快」を求めるようになる。音楽も雅楽やグレゴリオ聖歌といった大人しいものから、古典を破壊した当時のロックンローラーであるベートーベン、ハチャメチャとしたパンクロックにまで発展し、会場を埋め尽くす何万人もの観客が騒ぎまくるものになっている。現代人の耳には悠長な雅楽や古典音楽は、呆れるほど退屈だ。これは音楽という麻薬の「運命」だろう。音楽は人間の脳味噌を刹那的に昂奮させ、素早く去っていく。激しさは鈍麻して直ぐに陳腐化し、聴衆は新しい激しさを求める。これをドラッグでないと誰が主張できるだろう。人々はコンサート会場に興奮するために集うのだ。だとすれば、チューリングマシンがAIの元祖であるように、ウォークマンは現代の「音楽依存症」を人類に植え付けた元祖と言うことができるだろう。音楽の音は、より激しい刺激でピュッと出る脳内麻薬の誘導振動である。そしてこれが心地良さのイニシエータならば、脳内麻薬の分泌を促進する賭博も、巷に拡大しているドラッグも、札束の山も、すべてが脳内麻薬に関わりながら世界をダイナミックに動かしていくエネルギー源なのだ。そして麻薬の常として、人々の五感はさらに強い刺激を求め続けていく。
すべて「快」に関わるものが麻薬とすれば、そして常に人間がさらなる「快」に向かって走っていくのだとすれば、多くの人間が衝突して怪我をするのは当然だろう。「快」は「快」を生み、増殖し、他者の「快」とぶつかり合いながら血を流す。しかし地球には全人類の「快」を供給するだけの資源はない。その貴重な資源の奪い合いが、そこかしこで起こっている戦争ということになる。そしてその行き着く先が、ソドムとゴモラでないことをただ願うしかないのなら、いずれ人類は滅びることを覚悟しなければならないだろう。逃げ去る場所は宇宙しかないし、人類は常に「快」を求め続ける悲しい性(さが)を背負っているのだから……。
ショートショート
人類野生化再生プロジェクト
少しばかり未来のこと、日本は地下と地上に分かれていた。ロボット君たちがいろんな機械を使って大きな地下空間を造ってくれて、放射能に耐えられない人たちの世話をしている。地上では放射能に耐えられる人たちが畑を耕したり、放射能に耐えられる家畜を飼ったりして、自給自足の生活をしていた。ロボット君たちは、地上の人たちを「進化系」と呼び、地下の人たちを「退化系」と呼んで、厳密に区別していた。
進化系と退化系は行動を共にすることが法律で禁止されていた。法律はロボット君が作った。退化系の譲二は妻の彩香の出産に立ち会うため、大きな地下病院に出向いた。彩香はすでに分娩室に入っていて、譲二はガラス越しに出産の様子を見守ることにした。分娩室では3人のロボット君がテキパキと働き、赤ん坊は直ぐに大きな泣き声とともに生を得て、その場で放射能検査が行われた。ロボット君の一人が親指と人差指を丸めてオッケーのサインを送ったので、譲二は胸を撫で下ろした。赤ん坊に放射能のあることが分かったのだ。母と子は直ぐに病室に運ばれ、譲二も駆け付けた。
譲二はマスク越しに彩香の額に口付けし、目に涙を浮かべて「頑張ったね」とねぎらった。彩香も、女の子が放射能のあることを喜んで、泣いていた。譲二はその場で、娘の名を「宇蘭」と名付けた。宇蘭はその直ぐ後に二人から取り上げられ、隔離室に運ばれていった。子供の放射能が、二人の健康を損ねる可能性があったからだ。放射能児は、法律で3カ月以内に地上の里親に預けなければならなかった。地上に行くまで、二人は我が子の愛らしい姿をモニターで見ることができた。
現在ロボット君たちは、人類野生化再生プロジェクトを展開していた。本来地上で生息していた人間を地底人のままにしてはいけない。人類はロボット君の保護下で一生を終えるのではなく、核汚染された本来の生息地である地上に戻るべきだ。ロボット君たちは、この人類野生化再生プロジェクトのために作られたスペシャリストなのだ。
病室に、院長ロボット君がやってきて、「放射能児のご出産、おめでとうございます」と三人を祝福し、地下菜園で育てた薔薇の花束を譲二に渡した。放射能を持つ子供が生まれる確率は10%なので、くじに当たったようなものだ。
「これであなたは、排卵が終わるまでお子さんを産む資格を得たことになります。親御さんの約9割が、初産で非放射能児を出産し、後の出産を断念なさるのですから。さあ、さっそく次のお子さんの出産に向けて、減感作療法を再開しますよ」
医師のロボット君が、微量の放射能が入った金属製の注射器を二人の腕に刺した。この放射能が二人の体に蓄積し、精子と卵子を通して次の子供に受け継がれていく。しかし9割の人たちは、夫婦のどちらかが過剰反応を起こして体調を崩すか、身体が受け入れられずに体外に排出してしまう。夫婦とも基準値まで蓄積できなければ、耐性児は生まれない。だから、妊娠21週の胎児検査で、基準値以上の放射能蓄積が認められなかった場合は、中絶を義務付けられる、しかし、夫婦ともども基準値以上であっても、また精子や卵子の蓄積が基準値以上であっても、それが子供にちゃんと受け継がれているかを知るのは、初産の結果次第だ。子供が放射能を受け付けずに体外に排出して、体内放射能が基準値以上に達しなかった場合は十分な放射能耐性が身に付かず、地表に移住しても1年以内に死んでしまうからだ。
法律では、放射能児を産めなかった人々は、新生児ともども廃人間としてより苛酷な地下空間に移住させられる。つまり人間の世界は、地獄と煉獄と天国の三つに分かれていることになる。煉獄は、譲二と彩香がいまいる地下空間だ。地獄は放射能児を産めなかった夫婦とその子供が落とされる地下空間だ。天国は、宇蘭が3カ月後に移動する地上世界だ。しかし人間が煉獄にいつまでも留まることは許されない。すべての法律は人類野生化再生プロジェクトのために作られていたからだ。
ロボット君たちは、限られた地下空間で、地獄と煉獄で暮らす人々のために放射能汚染されていない食糧を作る必要があった。地下で食糧生産能力を上げるには、相当の労力とエネルギーコストがかかる。それで食糧生産量はほぼ横ばいの状態が続いていた。ロボット君たちはいつも地獄と煉獄の食糧配布に苦慮していた。彼らの目から見れば、煉獄は進化系人類の生産施設で、それに対する食糧をケチることは避けたかった。しかし地獄は、進化系人類を生産できない廃人間と退化系ベイビーの蟠る収容所で、極力食糧を制限する方針が取られていた。しかし退化系ベイビーたちは、地獄の中の託児所に預けられて厳しい健康チェックを受けながら、「スペア」としての待機要員にもなっていたので、託児所の食事だけは煉獄の食事と変わらないぐらいの栄養が与えられていた。
煉獄の夫婦は妻が閉経して子供を産めなくなると、廃人間として仲良く地獄へ落とされた。人類野生化再生プロジェクトでは、進化系人類の更なる生産が求められていたので、煉獄の設備投資に重点が置かれ、煉獄の地下空間は拡大していった。しかし地獄は、主として廃人間の余生を送る場所なため、拡張はほぼ行われていなかった。10年前に、この地獄空間が廃人間で溢れて手狭になったとき、ロボット君はその解決策を見出した。廃人間の早期処分である。
ロボット君たちは、ロボット三原則の「ロボットは人間に危害を加えてはならない」という文言を忠実に守ってきたが、手狭になった地獄空間を前にして、それに反しない妙案を考案した。彼らが人類の歴史書から引用したのはヒトラーや☓☓☓☓という英雄だった。ロボット君は、人間社会においては、人間は人間を自由に処分できることを知ったのだ。そこでさっそく、地獄の住人の中から若い夫婦を選び出して地獄の王様に仕立て上げ、贅沢な部屋と食物を与え、地獄法を作らせた。それは、地獄の廃人間は、夫婦のどちらかが50歳を超えると二人とも自動的に処分されるというものだった。例外として、煉獄から落とされたばかりの人間は10年間地獄に留まることができ、50を超えても生きることは可能だ。そして、処分された廃人間の肉は、貴重なたんぱく源として、地獄用の食材に加えられることになった。王様が作った地獄法は、ロボット君にとっても一石二鳥の妙法となった。
煉獄の拡張工事に伴い、進化系人類の生産能力が徐々に高まりつつある。ロボット君は得意な計算で、毎年プロジェクト計画に則した補充を行ってきた。地獄の保育園では、ロボット園長の祝福のもと、初潮を迎えるなど生殖能力を得た一定数の男女が結婚式を挙げ、もうすぐ処分される両家の親と涙の別れをして、煉獄に旅立っていった。彼らは煉獄で、新しい部屋と栄養に富む食事を与えられ、まずは5年間、放射能減感作療法に励んで少しずつ放射能を蓄積し、その後ひたすらセックスに明け暮れて進化系の子作りに励む。そして初産のベイビーが結果として進化系でなかった場合、「俺たちの人生は終わったな……」と落胆して地獄落ちし、もうすぐ潰される痩せた4人の両親と再開して、哀れな初孫を披露する。祖母たちは赤ん坊を見つめて微笑み、それから涙に溢れた眼を息子夫婦に向け、「お帰りなさい、お疲れ様」と呟く。もちろん、彼らの孫は第一志望の天国には入れなかったが、第二志望の煉獄に昇れる希望は残っていた。
一方、天国へのパスポートを得た宇蘭は、生まれながらのエリートとして元気に泣きながら、里親からの連絡を待っていた。天国は、人類が本来生きていた環境が残っていて、人々は農耕を基本に平和な生活を営んでいた。いまの地上と大昔の地上との自然環境の違いは、核汚染されているかされていないかの問題だけだった。基本は自給自足で物々交換なので、地球温暖化危機からもフリーになった。もちろんAIフリーで、ロボット君もいなかった。
天国で日々を楽しく暮らしている進化系人類は、みな穏やかな顔つきをしていた。天国の顔つきと煉獄の顔つき、地獄の顔つきは明らかに違っていた。天国の人々は幸福の中で生きている笑顔の輝きがあった。煉獄の人々は必死に生きる鋭い目の輝きがあった。地獄の人々は、諦めと絶望ですべての輝きが失せ、ドロンとした目をして顔色も悪かった。しかし天国の人々も、偶に笑顔の失せるときがあった。それは自分の血を分けた子供を持てないことへの悲しみだった。天国の人々は強い放射能環境の中で、生殖能力を失っていたのだ。だから彼らは煉獄の子供の里親になる以外に、子供を持つことができない。人類野生化再生プロジェクトでは、人間は天国に住む人々に限定されていた。ならば煉獄の人々も、地獄の人々も、人間というよりは、人間を造るツールに過ぎなかった。昔、労働者が国や資本家の繁栄に資するツールに過ぎない時代があった。その時代に鑑みれば、煉獄の人々は労働者、地獄の人々はホームレスと言い直すこともできるかもしれない。
ようやく天国の里親が決まって、宇蘭が里親に引き渡される日が来た。ロボット君は宇蘭を抱いて、地上に昇って行った。譲二と彩香も面会用の別のエレベータで昇った。ドアが開くと、そこはガラス張りの面会室になっていて、ガラスの向こうに宇蘭を抱いた里親の、喜びに溢れる顔があった。ロボット君が譲二たちに顔を向け、「さあ、ご自由にお話しください」と促す。里親の両親は宇蘭を抱いて近付き、ガラス越しに「本当にありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。
「出産、大変だったでしょう」と奥さんがねぎらう。
「いいえ、これから何人も産まなければなりませんもの」と彩香は返した。
「あなたのお子さんをみんな預かりたいけど、子供のいない家庭が多すぎて、当分一家族一人と決められているの。残念ですわ。兄弟がいた方がいいですものね」
「その代わり、この子はお二人の愛情を一身に受けて育ちますわ」と言って、彩香はさみしそうに笑った。
「私たちだけじゃなく、我々四人の愛情を受けて育つんです」と進化系の夫。
「僕たちの愛は弱いな。画面でしか会えませんから……」
譲二は視線を宇蘭に向け、苦笑いした。
「いずれにしても地上は天国なんだ。宇蘭ちゃんが不幸になることなんか、絶対にありませんよ」
「お願いします。宇蘭を幸せにしてやってくださいね」と彩香は念を押した。
譲二と彩香は、遠くの美しい山に向かって新しい両親とともに宇蘭が去っていく姿を見送り続けた。周りは一面の菜の花畑だった。美しい山は白雪を戴いた富士山だ。その白雪は、夜になるとオーロラのように薄青く輝いた。
「嗚呼あの雪山、昇りたかったなあ……」
「あら、あなたの趣味は洞窟探検じゃなかった?」
二人は肩を寄せ合い、笑いながら地下奥深くへと戻っていった。
(了)
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