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エッセー
芸術の永劫回帰

 「文盲」という言葉がある。差別用語と指摘されることが多く、マスコミでは使われていない。僕もそれに倣って「非識字者」という言葉を使おう。最近ではSNSで、文章の読み書きが苦手な人を「文盲」と揶揄する人がいるらしいが、これも差別だ。文章は本来、意味の伝達手段に過ぎず、伝われば役目を果たす。教養の指標にする必要もなく、「文学」なんかも所詮趣味人の愉楽に過ぎない。音楽や美術と同じに、好きなタイプの愉楽にのめり込めばいい。

 ユネスコによれば、世界の識字率は、男が90%、女が83%で、残りは非識字者ということになる。しかし非識字者であっても、目や耳の不自由な人ほどには日常生活に支障をきたすことはないだろう。大和民族は大和言葉を話していたが、文字を持たなかった。5世紀初めに帰化人とともに中国から漢字が入ったことで、古事記や万葉集が現存できたわけで、それがなければ日本文学もなかった。しかし、それまで暮してきたし、物語は語り部が伝承してきたのだから、文字がなくてもやってこれたに違いない。彼らは歌い、語り継いだ。運良く、文字を輸入したときは日中友好時代で、後の元寇も追い返し、大和言葉は消滅しなかった。当然ポルトガル語や英語を話す国民にもならなかった。

 文字なき人々の意思伝達手段は、対面で言葉をやり取りすることで成り立つ。離れた仲間に何かを伝えようと思えば、自分か側近が伝令になるか、太鼓(丸太)や狼煙(のろし)で知らせるぐらい。太鼓はリズムや高低、狼煙は強弱や色などで、ある程度の情報は伝わるが、せいぜい「村長危篤、直ぐ帰れ」とか「敵がそっちに向かっている」などがメインだろう。しかしこれらはすべて、集団の仲良しクラブ的通信ツールで、彼らの世界は部落(部族)単位で、部落どうしは殺し合いの喧嘩を繰り返していた。また、言葉もその部落特有の言葉だったりして、別部落の住人とは会話が成り立たないこともあった。だから、卑弥呼の邪馬台国が九州か近畿の一部にあったとしても、文字がなければ、さほど大きな国ではなかったろう。もっと早くに漢字を輸入していれば、記録が残って近畿・九州論争も解決していた。

 文字の輸入は、一挙に村社会の規模を広げた。大和民族は、天皇を中心とする大きな文化を築き上げることができた。良く知られた文明で文字を持たなかったのは、モンゴル帝国や、アンデス文明(インカ帝国)ぐらいなものだ。「口約束」という言葉がある。これには「約束」の品位を損なう意味合いがある。裏側には常に「裏切り」「記憶にございません」「言った覚えないよ」という意味合いが隠れている。周りに証人が居たとしても、証言が不確かなものなのは、裁判を見ても明らかだろう。記憶はいい加減だし、無理に忘れることもできるし、私利私欲で偏向する。しかし明文化されて印を押すことで、口約束は証拠となる。だから他民族・他部族が一体化する文明、異なる主義どうしが混じり合う文明では、文字による記録が不可欠なツールとなり、約束の信頼性は一気に上昇する。仮に明文化された文章を墨塗りすれば、それは「裏切り」を吐露する居直りだ。「歴史は裏切りの連続だ」と言われれば、それまでだが……。

 文字による明文化は、人と人の約束事、集団と集団の約束事を明示し、文明を広げ、他文明との繋がりを保障した。また、支配層の権威を高めるためのアピールにも利用された。例えば古事記、日本書紀やギルガメシュ叙事詩のような英雄譚だ。文字は個人や集団の権威を高める。文明が栄え成熟するほどに、下々の者も政権の威信を横目で見て、自分自身の存在感を高めるようになる。文字をそのツールとして選び、自身の感情や空想、考えを文字に認め、特定の人や万人に読んでもらおうとするようになり、恋文はもちろん、万葉集や竹取物語、源氏物語などが書かれていき、それらが日本文学の始まりになった。それまで彼らは祭りなどで歌って感情を吐露していたが、それらが記録として後世に残ることになった。

 万葉集と古今和歌集の違いは、万葉集は読み手を意識することで洗練されてきたものの、方言も多くてまだ話し言葉の形体を残しており、純朴な歌が多い。対して古今和歌集は読み手の印象を意識し、文章の美しさを研いて作られるようになった。作者の軸足は、感情や空想の素朴な吐露から、文字となった感性の美しさへと移行したと言ってもいい。例えば、感情を言葉で吐露する場合、話し手は聞き手の側の印象を先読みして、言葉の表現を考える。押さえるか、激しくするか……。会話の場合は聞き手は数人か集まった群衆だから、それは比較的簡単だが、トランプ氏にも専属ライターが付いている。

 しかし、言葉を文字にした場合、書き手は想像もつかない数の読み手を意識しなければならない。吉田兼好のように少しの理解者がいれば十分さと居直っても、人気がなければ絶版となる。結局より多くの読み手が認めてくれる文章を書かなければならなくなり、「文盲」と揶揄されるのも嫌だから、読み手目線の推敲を始めることになる。そうして多くの書き手が推敲することにより、美文やら名文の暗黙の条件が形作られることになる。古今和歌集も新古今和歌集も、その暗黙の条件を慣習として身に着けた選者が、名文評論家として一定の選考基準で選んだものだと言うことができるだろう。そして洗練された文章が、文学の主流となった。

 文学作品とは、主張したい感情や感性、あるいは物語を、一定の基準を持った多くの読者が承認できる表現でまとめたものだ。しかし作品が氾濫するにつれ、その基準は読み手の増加とともに多様化していった。この作品は好き、この作品は嫌いという読み手の感性が主張され、読み手は気に入った作者だけを選ぶようになってきた(ベストセラーだけを読む人もいるが……)。

 これは文学だけでなく、音楽や美術などのすべての芸術に共通したものだ。永い間、西洋音楽では楽典という音楽理論が基準となり、西洋美術ではフランス王立絵画彫刻アカデミーの基準が美の表現とされた。文学でも、多くの文芸評論家の賞賛した作品が残り、お手本となった。そうした基準の中で、頂点となるような作品が次々と現れた。例えば文学で言えばフローベールの精緻な描写力、美術で言えばダヴィッドやアングルなどのやはり精緻な写実力とか、音楽で言えばヴェルディやワーグナーのダイナミックなオーケストレーションとかが、伝統的規定の完成形を示して後の作家たちの前に立ちはだかり、風穴を開ける以外に道はないよとアピールした。結局続く作家は二番煎じか、基準を徹底的に破壊する以外に手はなくなり、美術の場合は印象派の反乱が起こり、音楽の場合は音楽理論の崩壊に走った人々が出てきて、文学も美術も音楽も、何でもありの世界に突き進んでいった。当然彼らは、巷にたむろする多くの芸術スノッブたちを巻き込む必要があったから、大々的に運動を展開した。

 先人たちが長い年月を経て築き上げた美の基準を崩すには、そんな基準が作られていく歴史を飛び越えた前時代に戻るのが手っ取り早い。再構築の前には更地にする必要があった。造反者の多くは、芸術の概念がなかった原始時代的な混沌の世界に憧れた。ストラビンスキーは音楽理論を破壊する代わりに、『春の祭典』という原始をイメージした過激リズムのバレー曲を作曲した。シェーンベルクは音階や和声に依拠しない無調音楽を広め、音楽理論以前の世界に回帰した。美術は美術で写実主義を完全否定し、野獣派やキュビズムの画家たちが、古典的視点からは下手糞な作品を次々に発表した。ピカソもミロも、アフリカ美術やアルタミラの壁画を意識した。

 その後アブストラクトやダダイズムなど、自由な発想のアバンギャルド・アートが盛んになる。1924年に詩人のアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を書き、文学だけでなくあらゆる芸術において規定の枠組みから外れた芸術運動が広がって、100年後のいまに至るまで何でもありの世界が続いている。僕はル・クレジオの『大洪水』や、ジョイスの『ユリシーズ』を読んだが、意味不明で完読できなかった。そういうのが好きな人は読めばいいし、性に合わない人は読まなくてもいい。要するにそれらは、既成概念を破壊したことに意義があるのだから、カオスを理解しようと思うのは、単なる安手のスノッブ精神なのだ。多数の感性とマッチした感性の本が出れば、それはベストセラーになるだけの話だ。多数・少数は儲かる・儲からないの問題で、それは芸術の問題ではない。いまの芸術の価値基準は、「何でもあり」ということだ。これは芸術のアナーキーと言い換えることができる。それぞれが勝手な基準を創ってアピールすればいいだけのことだ。

 無政府状態(アナーキー)は、政府という権威が崩壊したときに起こる。美的アナーキーとは、美の価値基準が崩壊したときに起こる。そんな世界では、人々は人を頼らず、自分が生き残るためだけにエネルギーを集中する。芸術家も自分の書きたいもの、創りたいものだけにエネルギーを集中する。それらの人々が「個」という非力な存在を意識すれば、仲間どうしで固まり、盗賊となって食物をかき集めたり、芸術運動を起こして存在をアピールすることになるだろう。ニーチェは、すべての価値が過ぎ去った後に、あらゆる価値が回帰すると言った。するといままでの価値観が崩壊した人類にとって、これから進むべき方向は、原始とかアニミズム以外にないということになる。

 原始時代、原始人たちは隣村との戦いの前に激しいリズムで踊りまくり、闘争エネルギーを体中に蓄え、戦いに臨んだ。いまの若者は、ライブ公演で同じことを体験している。人間が動物である限り、原始的な興奮や快楽は明日の糧となる。それが下品だと言う人間は、かつての権威者たちの基準から抜けきれない老人だ。美術においても、アルタミラの壁画や鳥獣戯画への回帰が進んでいる。漫画自体が、大衆芸術(ポップアート)として、大きく取り上げられるようになっている。それでは文学はどうだろう。残念ながら、アルタミラの時代に文字はなかった。文字は大きな文明がその維持に必要だと考え、頭の良い学者が発明したものだ。それは最初からエリートのツールだった。その仕来りを勉強しなければ、使うことができなかった。そして文学作品も、エリートたちの趣味として進化・発展し、観念の遊びとなっていった。

 しかしいま、それは新しい時代の芸術として、新たな方向性を見出した。文章の短文化である。それは文字の絵画化による大衆の反乱だ。短文は、一瞬見ただけで意味内容が理解できる。そしてその短文と絵画が合体して、物語を楽しむことができる。漫画は舞台を必要としない劇だ。昔はエリートのたしなみだった文字が、漫画の吹き出しとして活躍するようになった。さらに、動く画像の発明で、文字自体を音声語に戻すことが可能になり、漫画は劇になった。もう長ったらしい文字は必要ない。人々は原始時代から連綿と続いてきた愉楽を、文字なしで味わうことができるようになった。そしてAIの進化により、自分自身が物語の中に入ることができるようにもなったのだ。昔、読者は文章を読みながら、物語りの状況を想像したものだ。僕は子供の頃、親に河出書房のカラー版世界文学全集を買ってもらったが(ワッ、昔は金持ちの御曹司!)、そこに挿入された何とか画伯の乱雑なカラー挿絵に憤慨したものだ。「イメージ台無しじゃん!」。しかしいまは、そうしたイメージすら漫画家が与えてくれる。挿絵を考えた編集者は、いまの時代を先取りしていたことになる。おかしな想像力は社会を乱すだけだ(当然、読み手の想像力の訓練にはなりません)。

 この時代、音楽は原始の激しさに進むか、メタバースのBGMとしての二者択一の選択を迫られるだろう。聴衆がそれ以外を望まないのなら……。過去の音楽は、懐古主義者の余興に留まり、そこから新しいものは出ないだろう。美術は美術で、ますますアニメ化が進んでいくだろう。懐古主義者たちは、展覧会で過去の美術を楽しむだけになるだろう。彼らは美的権威主義の中で育った老人たちだ。そして文章は……。表現力は『ボバリー夫人』で終わったと考える人たちは、奇をてらったような安っぽい表現を見透かし、古典に回帰するかも知れない。その他の人々は、原始的短文の散りばめられた漫画と、シアターの没入体験を選択し、空虚な現実空間から逃避するだろう。永劫回帰の宿命の中で人々が先祖帰りを続ければ、古い芸術はすべからく文化遺産となっていく。日本人の心から能や歌舞伎の感性が消えたように……。それが良い現象か悪い現象か、というのはどうでもいいことだ。人それぞれ好きなものを見つけて、熱中すればいい話だから……。

ショートショート
魔の山

 男は一昨年と同じように、頂上まであと少しの岩陰に辿り着いた。そして一昨年と同じように、天候の急転に阻まれた。
「仕方がない。この前と同じにここでビバークだ」
 シェルパと二人がかりで硬い雪を掻き出し、シェルパはツェルトを固定するペグを打ち始めた。
「慎重に。ここをもっと掻き出すと、弟が現れる」
「それはないな。夏の大嵐で残雪と一緒に吹き飛ばされているさ」
 シェルパは言うと、男の肩を軽く擦った。
「いずれにしろ、近くで弟が見守ってくれている。ならば、一昨年のように5日も吹雪くことはないさ」
「そいつは、魔王と弟さんの関係によるな」
「何だい? その魔王って……」
「この山の主さ。冬期登山が成功しないのは、魔王が阻んでいるからだ。弟さんが魔王に取り入っていれば、我々は成功する」
「なるほど。どこの世界も変わりはしないか……」
 男は、溜息混じりに苦笑いした。
「で、弟さんはゴマすり男かい?」
「俺よりはそうかもな……。しかし山男だからな、似たり寄ったりさ」

 結局、3日経っても吹雪は収まらなかった。すると男は、少しばかり高山病に罹ったような気がし、倦怠感と軽い眩暈を感じはじめたので、脳血管拡張剤を服用した。そのころからシェルパは、男が日本語で独り言を始めたのに気付き、「俺に分かる言葉で喋ってくれよ」と促した。
「ごめんごめん。いまここに弟が会いにきてるんだ。弟の声が聞こえないかい?」
 風の音しか聞こえないので、シェルパは英語で弟に語り掛けたが、返事すらもなかった。
「どうやら弟さんは、おいらと話す気がないようだな。あるいは、あんたは魔王と話しているのかも知れない」
「弟が魔王?」と言って、男は笑った。
「弟は弟さ」
「しかしあんたが話している相手は死んだ弟だ。この山で死んだ連中は、全員が魔王の支配下にあるんだ。だからたとえ弟だろうと、関わってはいけない。関わると、ろくなことはない」
「だからと言って、わざわざ訪ねてくれた弟をむげに扱うことはできないさ」
「勝手にしろ!」

 シェルパは、幻覚の中で死んでいった客を何回も見ていた。そんなときは耳栓をして、客が回復するのを待つ以外ないと決めていた。一方男は、眠ることなく弟と語り合った。

「兄さん。あのとき僕を置いてきぼりにして下山したけど、その後僕はどうしたか知ってる?」
「さあ……」
「一人で登頂したのさ。あの日は雲一つなかったのに、なぜ兄さんはアタックしなかったの?」
「お前と一緒じゃなけりゃ、登頂はしないつもりだった……」
「馬鹿だなあ。僕は死んだって、いつも兄さんと一緒だよ。嗚呼、頂上から見る景色を兄さんにも見せたかったな。僕はあのとき初めて、地球は下の世界と上の世界ではまったく違うということを実感できたんだ。ほら、兄さんがよく言ってたことさ」
「だから俺は、いま再びここにいるのさ。下界で生きている人間は、モグラのようなものなんだ。地球上に、まったく違う世界があることを知らずに死んでいく。それは酸素という毒が少なくても息苦しくない、清々しいエーテルで満たされた穢れなき世界さ」
「それはきっと、呼吸をしなくても自由に動けるピュアな世界なんでしょ。いま兄さんはその入口まで登ってきたんだ。それなのに、また引き返すつもり?」
「お前が魔王に掛け合って、明日の天気を変えてくれれば登れるさ」
「約束だよ。二人で一緒に登るんだ。僕は魔王に掛け合い、明日の朝に兄さんを迎えに来る」
「ああ、待ってるよ……」

 明くる朝は雲一つない晴天になった。シェルパが目覚めると男の姿はなく、雪の上には防寒着が投げ捨てられ、頂上に向かう裸足の跡が刻まれていた。シェルパは溜息を吐きながら自分の荷物をまとめ、「この山には魔物が住んでいる」と呟きながら、麓の村に戻っていった。

(了)




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