少年の決意とジジイの習慣に潜む罠 (家で★深読み)
かつて、大橋巨泉が司会を務める「クイズ・ダービー」というテレビ番組があった。
その番組が終了する少し前だったと思う、── こんな問題が出た:
「利き手とは反対側の手で毎日行うと体のバランスを保つのに良い、との研究発表がなされましたが、その日常習慣は何?」
答えは ── 《歯磨き》だった。
毎日必ず行う動作であること、適度に力が入り、かつ、制御が必要なことが重要なのだとか。
この番組を自宅で見ていた私は、思わず立ち上がった:
「オレ、それ、子供の頃からずっとやってるじゃん!」
小学校3年の時だった。
クラスの悪ガキが、右腕の骨を折り、しばらく腕を吊って通学した。
彼は文字を書くのも、給食で箸を使うのも、当然左手で行わなければならず、酔っぱらったミミズのような字を書き、食事の速度は大幅に低下した。
(自分も、いつこんなことになるかもしれない!)
こうした事態に備えなくてはならない、と考えた私は、その日から、利き手(右手)で行っていた全ての行為を左手に変えよう、と悲壮な決意をした。
しかし、当然ながら、それは《イバラの道》だった。
右手を折った悪童と同じことを、まだ折ってもいないのに行うわけである。
試験問題を解いても書くのに時間がかかる。みんなが外に遊びに行くのに、自分だけまだ給食が終わらない。
数か月でまず文字を書くことは断念し、数年で箸を使うことも諦めた。
そして、最後に残ったのが、技術的難度がそれほど高くない、
➀ 歯を磨くこと
➁ お尻を拭くこと
だった(正確にはもうひとつあるが)。
このふたつの《左手使用》は今も継続している。
以前、➁について書いたことがある。
もうひとつが、➀の歯磨きだ。
意図せずに、体のバランスに良い習慣を身に着けてしまっているではないか!
感動のあまり、当時、たぶん幼稚園児かその前くらいだったふたりの子供にその話をした。
それが影響しているのか、あるいは別途考えるところがあったのかはわからないが、次女だけは小学校のある時期から文字を書いたり箸を使ったりするのに、利き手ではない左手を、明らかに意図的に使い始めた。
常々、
「私は父を反面教師として生きています」
とのたまうヤツだ。
一度、その習慣と私が話したことと関連しているか尋ねたが、
「え? そんな話、アタシャ知らないよ」
と言っていた。
昨年暮れに帰省した時に見ていたら、まだ左手に箸を持って食事をしていた。
(うーむ。大したものだ)
数年で断念した私は、《父を超えた》娘に感心した。
しかし、この「矯正」に問題があることも私は知っている。
数年前の一時期、「五十肩」で左腕の可動範囲が大きく制限されたことがあった。
(仕方ないな)
と右手でお尻を拭こうとしたが、拭けないのである。手が後ろに回らないし、微妙な制御が難しい。
数十年間、毎日左手でお尻を拭いているうちに、右手では拭けなくなったしまったのだ!
(うーむ。結局「利き腕の骨折に備える」という目的には叶っていなかったのでは?)
いやいや、と《自己否定》にはやはり首を振りたい、と思うジジイなのであった。
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