実りの時を待って
5月・6月と、完全オフの日などなくそれはそれはもう忙しくしていた。
何でかというと、さくらんぼ農家のお手伝いである。
フリーランスという仕事柄、時期によって仕事量に幅があって、自分でもその量を調整しやすい。
今年の春先、本業の仕事量を増やせるタイミングがあったのだけれど、せっかくなのでちょっとした冒険心・好奇心から「突拍子もないことをやってみよう」と思い立った。
なんとなく道草を食ってみたくなったのだ。
それで、知り合いのツテで、さくらんぼシーズンの6月末まで果樹農園のお手伝いをすることにした。
結論から書くと、果樹農園のお手伝いは、一生ものの体験であった。
幸運なことに、さくらんぼだけでなく、りんご・ラ・フランス・ももの木のお手入れもお手伝いさせてもらった。
人に向き合うでもなく、パソコンやAIに向き合うでもなく、自然を相手にして仕事をする・果物を育てることの豊かさ、そしてむずかしさ、うつくしさ。
たった2ヶ月、農作業のほんの一部分しか体験できてはいないが、まさに
「人生じゃん……!」
の連続で、何度も胸がギュインッとなった。
ひとつの枝に残す果実は
「摘花」「摘果」「摘菜」という作業がある。
果実が成長して、ひとつの枝にたわわにぶら下がっているのを、厳選して減らす作業だ。
ひとつの枝にたくさん実がなっていれば、それだけ収穫量も増えて収入にもなるし、せっかく大きくなった実をチョキンチョキンと切り落としてしまうのはもったいなくないか……?と最初は思った。
しかしこの摘花や摘果は、果実の十分な成長に欠かせない工程だ。
なぜなら、ひとつの木・ひとつの枝が吸い上げられる水分量や、たくわえられる栄養分には限りがあるからだ。
実の数が多すぎると、ひとつひとつの実に十分に養分がゆき渡らず、果実が育ちにくくなる。
そのため、花が咲いた段階や、あるていど果実が育ったところで、ひとつの枝になる実を厳選してまびいていく。
そうすることで、数こそ多くはなくとも、大きくうつくしく美味しい果実が育っていくのだ。
この作業をお手伝いしながら思った。
人生じゃん……。
わたしたちのもてるリソースには限度がある。
時間・スタミナ・情熱・お金……時間には限りがあって、この身体も心もひとつしかない。
それなのに、やるべきことも、やりたいことも、たくさんある、どんどん心に芽生えてくる。
しかしそれら全てをこなそうとするのはあまりに欲張りだし、実際叶わぬことも少なくない。
だから、選択するのだ。
何を選ぶのか、何を切り捨てるのか、何を残すのか、何を後まわしにするのか。
農作業における「摘果」は、そうした日々の選択の連続をまさに可視化した光景のように感じられた。
摘果作業の、ハサミで果実を切り落とす
チョキンッ
という軽快な音を聞くたびに、わたしは自分の中で何かが動くような、無意識のうちに何かを確かめるような、選択の迷いが消えていくような、そんな気がしたのだった。
いやまあ、作業に集中せえよ、という話ではあるのだが。
自然に合わせてしなやかに待つ
わたしは人前に立つ仕事をしていて、日々、たくさんの人間の視線にさらされている。
わたし自身も、まわりをずいぶんと見てしまうタチなので、外に出れば事細かく何かを見たり察したり感じとったり、そして考えてしまう。
そして仕事柄、何かを伝えたり、教えたり、指導したり、逆に聞いたり、そういう相互のやりとりがある。
だが自然が相手となると、こちら側は自然に従う他ない。
ひたすら、自然に合わせにいって、できるだけ先読みして、過去の経験にも頼りながら、柔軟に対応するのが農作業には求められるのだと学んだ。
自然には抗えない分、気張らずに待ちつつ合わせにいくしなやかさ、おおらかさは、パソコンに向かっていては知ることのできない空気感であった。
今や、何でも思い描いたことを形にしやすく、自分の好きなように生きやすく、発信も受信もしやすく、時間や空間や距離のラグも何のそのといった便利な世の中ではある。
だからこそ、わたし自身もまさにそうなのだが「待つ」のが難しくなっているとも思う。
「わからないものをわからないままにしておく」とかも、難しい。
だが農作業は、先の読めないことばかりだ。
日々の天気から、育っていく度合いや、出来高、市場の反応やニーズやブーム。
農作業の、自然に抗わずにしなやかに実りの時を待つ姿勢には、時間も情報も心身も忙しなく行き交う現代において忘れがちな大切な何かが感じられた。
その「何か」が何なのかをうまく言語化できていないのだけれど、農作業の時間はとてもゆっくりと、実りが待ち遠しく、時に歯がゆく、でも言葉にできないくいらいに豊かだった。
さくらんぼは見栄っぱり
これは農家さんには失礼になっちゃいそうだから言えないのだけれど……、
さくらんぼって、見栄の果実だなと思った。
他の果物、例えばりんごとか桃とかラ・フランスに比べたら、さくらんぼは小さくて種もあって食べられる部分は少なく、傷つきやすく日持ちもしなくて繊細だ。
たしかに、さくらんぼは美味しくてかわいくて、この時期の風物詩で貴重なのも分かる。
だが農作業(手入れ・収穫・選果や箱詰め)をしてみて思う。
さくらんぼは見栄っぱりな果物なんじゃないか、と。
なにせ、収穫したさくらんぼを出荷するための、選果や箱詰めするときの細かな基準と、さくらんぼの繊細さに驚いたのだ。
色・形・大きさ・傷の有無・熟度……もしかしたら他の果物も同じような基準かもしれないが、とにかく親族総出で作業にあたらねば捌けぬ短期勝負の鮮度や量や、機械では無理であろうさくらんぼの繊細さが印象的だった。
あんなに厳選して育てても、こうも儚く腐ったり傷ついたりしてしまうのだな、と。
だから市場に出まわるさくらんぼが決して安くはなく、色も形も整っているのも納得ではあるのだが……。
さくらんぼが、その栄養価とか、その味で選ばれる印象はあるだろうか?
いや、それよりも「見た目」や「季節感」、「希少性」という印象だ。
さくらんぼ農家の多いエリアの道の駅には、さくらんぼのコーナーに人だかりができていた。
その多くの人が、自分用というよりは、お土産や誰かに贈る用だろうか、とにかくたくさんパックや箱を抱えていたのが印象的だった。
運送業者も、この時期はさくらんぼの発送のために人手を増やしたり窓口時間を変更して対応するのだそうだ。
そんな光景を見て、さくらんぼは人間の何かを背負っている気がしたのだった。
うーん、うまく言葉にできないのだけど、さくらんぼを取りまく文化史みたいなものに、おもしろみを感じている(誰かにとっては失礼な話だろうが……)。
空の青さと、果実の紅
何やかんやと小難しく書いてきたが、農作業をして感じたのはとにかくこれだった。
外で、初夏の気もちのよい風を感じながら、青空の下で、果物の木々に向かい合う時間は、とにかく自然に包まれているようで心地がよかった。
日に日に色や大きさを変えていくさくらんぼの実を眺めるのも、ほんとうに楽しかった。
さくらんぼの実は、最初は緑色で、次第に白っぽくなり、黄色くなり、最後に紅く染まってゆく。
陽の光を吸い込んで色づいてゆくようで、ほんとうにステキだった。
何を選んで育てていくか
2ヶ月のお手伝いはいったん落ち着いて夏を迎えようとしている。
「摘果」のところで書いたように、わたしの日々でも、しなやかに細かに選択をし続けていくことを大事にして、限りある持てるものを最大限に活かしていこうと思った。
そして、今回まったく違う仕事をさせてもらえたことで、自分の本業ややりたいことを客観視できたのも大きかった。
今の本業について、やっぱりこの道でまちがいない、という確認ができた時間でもあった。
そんな6月も終わろうとしている。
夏もまもなく本番。
勝負の夏、と思っています。
無理やりにではなく、しなやかに、自分の「実りの時」を積極的に待とうと思う。
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