そういう時期
2023年12月ごろから、やたらとnoteを更新するようになった。
そのきっかけは、だいすきなアーティスト/役者の高野洸さんがきっかけだったように思う。
彼の楽曲をはじめ、そのご活躍についてのわたしの(重めの)感想を、書き出して整理して記録して眺めるために、あれこれと書くようになった。
そして同時期、わたしは地元に帰ってきたものの自分の殻にとじこもっては孤独を自ら選んで話し相手をもたなかったため、内側に湧き上がるものらを吐き出す場としてこのnoteを活用してきた。
だが新しい春をむかえて、なんだか筆が進まない。
どうしたことだろう。
あれやこれやと書いてはみるものの、「なんか違う」という感覚が3月くらいからつづいている。
筆が進まない理由は、2つあるように思う。
1つは、思考するよりも行動する時間が増えたこと。
もう1つは、心をひらいて書きすぎたこと。
このあたりが理由かなと推察している。
まず、「思考するよりも行動する時間が増えたこと」について。
新年度になって、すこし忙しくなった。
昨年は生活環境の大きな変化にともなって、混乱と適応・観察・受容の波の中にいた。
その中で、感じとったり、考えたり、思い出したり、新しく覚えたり、悩んだりといった「思考」の時間が長かった体感がある。
だが今年は、とにかく「行動」だ。
その「行動」とは、オフラインで手足を動かして見聞きし学ぶということで、思考ではなくて身体感覚のことで、そうなると、なんというか、「書く」の優先順位が変わるのだ。
たぶん今、自分がリソースを割く先が、変わってきている。
「書く」よりも、「やってみる」「見る」「聴く」「知る」「学ぶ」への関心が高くなっているのだと思う。
この4ヶ月弱で「書く」というアウトプットが一区切りを迎えたのかもしれない。
今はインプットの時期なのかも。
「いや書かずにはおれんだろ、どうせ」
というのは実際あるのだが、たぶん、ひとつのマイブームが落ち着いたんだと思う。
そして、「心をひらいて書きすぎたこと」も、筆が進まない要因な気がしている。
この4ヶ月、わたしという人間を、ばか正直にさらしすぎたかもしれない。
なんとなく、そう思っている。
ここに書いてきたことにウソはなくて、ちゃんと等身大で、実体験や本心ばかりで、だからこそ、無防備でもろくて。
書いて吐き出すことでたしかに救われてきたのだけれど、同時にわたしは心の畑をえぐりすぎたかもしれない。
自分をひらいて書いてネットの海に流すって、自分に必要なセラピーだったけれど、なんか、どこか、自傷行為でもあった気がする、言い方がむずかしいのだけれど。
もしかしたら、深ぼりなんてしないほうが、自己対話なんてしないほうが、言語化しないほうが、気づいちゃわないほうが、見つけちゃわないほうが、心の水面は波風たたずにきれいなままで、ちょっとした問題をサラリと受け流せて、切なさも寂しさも反省も後悔もまちがいも、認識しないことでわざわざ存在させずにおれたのかもしれない。
なかったことにはならないけれど、無理に見つめたり刻みつける必要もなかったかもしれないなって、今となっては思う。
後悔はまったくしてないけれど、ちょっと反省。
でもまあ、あたしゃ10代の頃からこうして書かずにはおれない人生なんである。
書くことは苦じゃないし、むしろたのしいし、いつまでたってもすき。
そう、結局、すき。
だから、また書くことになる、きっとすぐに。
でも今は少し筆を休めるというような、そういう時期かも。
ちょっとネットを離れて、実生活のやるべきことに注力してみようかな。
季節はうつろうけれど、ちゃんとめぐって、次の同じ季節がまたいつかやってくる。
ただ今が、そういう時期ってだけ。
そういう時期を、その時期のうちに、味わい尽くしておきたい。
あ、この曲がいま頭の中で流れてきた。
まあ、ゆっくりいこう。