道草をたのしめ
さっき、HUNTER×HUNTERのアニメ(2011年版)を見終えた。
ジンのこの言葉が、脳内でくりかえし鳴っている。
新版アニメの全148話を通して、ゴンたちの冒険を眺めながら心の旅をし、ゴンと共にジンの気配を追っていた。
そうしてたどり着いた最終回での、ジンのこの言葉である。
圧倒的でいて飾らないジンの、説得力たるや。
とにかく「キメラ=アント編」がえぐかった。
前半は、キメラ=アントの残虐さに何度も画面を閉じたし、人間のあまりにヒドい殺され方は夜に夢に出てくるほどの恐ろしさで、数日にわたり気持ちが落ちてしまい日常生活に支障をきたすくらいキツかった。
わたしが感じた恐怖は、当初はキメラ=アントに向けたものだと錯覚していたが、実はそれは「人間」への恐怖だと、見すすめるにつれ思い知った。
それが、ますます怖かった。
ただの動物だったらきっと思いつかないような残忍な弄び方は、どれも人間の知能が加わったからこそのものだったし、こんな描写を思いつけちゃう冨樫先生ももちろん人間で、どこかで「あり得なくはない」と想像できちゃってる自分も人間で、SNSを眺めればそう遠くない海の向こうの戦争の様子が流れてくるし、やっぱりそれも人間同士の争いで……。
物語の中にたくさんの救いもあったけれど、ちょっと、いまだに恐怖が勝ってしまっている。
人間、恐い。
しかし、そんな恐怖におののきながらも最後まで見つづけられたのは、なぜなんだろう。
きっとそれは、メルエムが最期にコムギとの時間を求めたのと似たようなことかもしれない。
わたしたちは、恐怖も知っているけれど、愛や絆や幸せも知っている。
人間の残酷さを認めた上で、努めてやさしく生きるべきだと、悟った。
それはそれとしておいて、冒頭の話のつづきをしよう。
「道草を楽しめ」の話だ。
この言葉が、ものすごく好きだった。
「効率」やら「コスパ」「タイパ」やら「映え」やら何やらに躍起になる現代にあって、「道草を楽しめ」とはなんと粋なメッセージだろう。
最近、気づいたことがある。
どうやらわたしは、「通ったことのない道」が好きなのだ。
東京にいて歩くことが多かった時も、山形にきて運転するようになってからも、細い路地・脇道に飛び込んで小さな冒険をしがちだ。
そんな時、
「道ならどこかしらには繋がってるだろう」
が口ぐせだ。
そういえば、わたしは何においても時間がかかる人間だ。
時に慎重で、時にガードが固く、時に丁寧すぎるなどして、何かと遠まわりしてしまう、振り返ればそんな人生を歩んできた。
見方によっては優柔不断で臆病で、また別の見方によっては好奇心旺盛で欲ばりだ。
そんな道を歩んできて、その寄り道の先で出会えたものとの付き合いは一生ものだとも実感している。
出会った人・こと・もの、そして、音楽だったり、ダンスだったり、物語だったり、世界のとらえ方、ものの考え方、言葉の選び方、向き合い方、聴き方、伝え方、愛し方、生き方。
振り返って考えてみれば、遠まわりをして時間がかかったとしても、その先で出会ったもの・知ったことは、「道草」の産物だったように思う。
だから「道草を楽しめ」には、背中を押された気がしてニヤついてしまった。
なんてかっこよくて、頼もしい言葉なんだろう。
「欲しいものより大切なもの」か。
そんなの、出会ってみたいに決まってるじゃあないか。
どんどん道草を食っていこう、
どんどん目移りしていこう、
試してみよう、
やってみよう、
冒険をしよう、
旅をしよう。
HUNTER×HUNTERのアニメを見て、そんなふうに思ったのだった。
とてもとても、魅力的な物語だった。
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