心にカスミン
やっちまった。
人付き合いも会話も本当に本当にヘタでニガテで失敗しては、なんてこった、と頭を抱えつづけてはや四半世紀。
冒頭のやっちまった、というのは、仲良くなりたい人との距離感を完全にまちがったのである。
またやっちまったわ……。
穴があれば入りt……あれ、こんなところに穴が、かくも見事な墓穴があるじゃあないか、ああそうか、この墓穴はいつの間にか自分で掘ってたのですね、自ら墓穴を掘っては飛び入りにけりいとをかしってか、ばかいってんじゃないよ。
そんなこんなで、またやっちまったんです。
あー、もう。
人と、だいたいは分厚い壁をつくっては遠〜すぎるか、そして年に1人か2人くらいごく稀に距離をつめすぎて、まあいずれにしても、まちがう。
今年も3分の1くらいにして早くも、このごく稀な1人に出会えて、で、例によってまちがった。
そんな春。
春というか、もう初夏……?
太陽のまぶしさに全てが明るみに引きずり出されるようで、スズランのようにうなだれている、あんなかわいらしいもんじゃあないが。
悲しいというか、情けないというか、恥ずかしいというか、なにより相手に申し訳なくて。
いつも書いてる気がするけれど、落ち込んでいる。
散りゆく桜を横目に、脳内では大反省会。
ああ、うつくしき散華のかなしさよ……。
や、まあ、でも、これは言い聞かせるように書くのだけど、
わたし、本当に本当に失敗してばっかりだし、未だに会話も人付き合いも下手なのだけど、それでも、半年前よりもまだマシだし、1年前より全然マシだし、3年・5年・10年前よりは、ずっとマシにはなってきている。
今回もまたまちがっちゃったけれど、今までよりかは少しうまくふるまえるようになってはいた、たしかに。
めちゃくちゃ時間がかかるし、得るものばかりじゃないし、心身のスタミナも削れてしまうし、何よりそのたびに誰かに迷惑をかけてしまう(それは本当に本当に申し訳ない)のだけれど、ほんの少しずつでも軌道修正?矯正?研磨?みたいなことはできている実感はある。
だから落ち込む気持ちはちゃんとあるし反省もすべきだけれど、それはそれとして、肩を落とさないで、胸を張って歩きたいなと思う。
そんな時に頼りになるのが、我らがオードリーの春日氏、カスミンだ。
「心にカスミン」
落ち込んでキツい時は、そう唱える。
そしてあの立ち姿勢を思い出す。
そんで、むりやりにでも胸を張って顔をあげる。
これが、ブルーな気持ちをあのピンクベストのような色に塗り替えてくれるくらいにはなかなかに効果的なのだ。
姿勢にはコンディションが表れやすい。
落ち込んでいるとそれは姿勢にも表れ、背が丸まるし、頭が垂れてしまうし、目線も下がって、足取りも重くなり、まあ見るからに暗〜い雰囲気がにじみ出てしまう。
わたしは心もちがデフォルトでそこまで明るくはないので、高身長なのも手伝って姿勢がみるみる丸まって、陰キャの装いになってしまう。
だから心にカスミン、なんである。
姿勢にコンディションが表れるということはその逆も然りで、姿勢が変わると不思議と気の持ちようも変わってくる。
先にも書いたけれど、時間やスタミナなどけっこうなコストがかかりこそすれ、あたしゃ少しずつマシな人間になってきてはいる。
カスミンのように胸を張ると、過去よりも今のほうが少しはマシだってことを思い出して、ちょっとだけ前を向ける。
まだ時間はかかるかもしれないし、またまちがっちゃうかもしれないけれど、それでも、カスミンのようにゆっくりゆっくり歩みを進めていこうではないか。
失敗したら、若さんのように痛快にツッコミをいれて、Netflixで “LIGHTHOUSE” でも見て元気を出して、オードリーのオールナイトニッポンを聴いて一瞬でも辛さを無化して、そしてまたカスミンのように歩みを進めていけたらと思う。
心にカスミン、というか、いつもやっぱり心にオードリー、だね。
山形では、ついに桜が散り始めた。
青空に映える桜が、カスミンのベストのよう(盲目)。
またまちがったからもうやめる、じゃなくて、もう失敗したくないから何もしない、じゃなくて。
まちがったらその度に反省して修正して、失敗したらそれを失敗しなくなるまで挑戦しつづけて、うまくできるようになったら更に磨いて研ぎ澄まして、わたしだけはわたし自身のことを、生きるのをあきらめないでいたいなあ。
人生、人生〜。