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母との残りの時間を考えてみた

私は10歳で父を亡くした。
どれだけ父との時間の過ごし方を後悔しても、家族には簡単に素直になれないものだ。

父との別れ
父との別れはまだあたりがよく見えない早朝、吐息で曇った窓をたたく音と親戚の声が私と姉を目覚めさせた。わけもわからず病院に駆けつけるとそこには号泣する親族に囲まれながら穏やかに父が眠っていた。胃がんだった。

幼い時の父
生前の父の性格を一言で言い表すことはできない。
たくさんの農業実習生をボランティアで受け入れたり、飛行機で隣の席になったインド人を田舎の家まで連れてきたりするような人。
水の尊さを伝えようと水源から都市部まで数日かけてカヌーで渡ったりするような人。
私が家族を叩いたりすると片手で担ぎ、仏間や蔵に閉じ込めてくる人。
自然を愛し、4歳の私が作った泥だらけのクローバージュースを「おいしい」と飲み干してくれる人。
トマトが嫌いでカレーが好きで、フォークソングを人前で歌い、昼間は太陽の下で真っ黒になるまで働き、夜は寝室で私を肩車してくれる人。

父の変化
私が小学2年生のころ、無農薬農家だった父は大きな稲刈り機に右腕を絡めて緊急手術をした末、右腕を切断した。その際に藁の汚れが腕に残っていたらしく数か月後に悪化。とても強い薬が投与された。
片腕を無くしたあとも左手で文字を書き、農作業を続け、知識を後世に伝える活動を続けていた。しかし、幼い私の目に映るのはもうあの頃の父ではなかった。寝室ではもう肩車をしてくれないし、プールで私を投げる体力もない。気丈に振舞っていたが背中が小さく見える。

闘病生活
1年後、胃がんが見つかった。ステージ4だった。しばらく入院をしていたが、手術を受けられないほどに体力が低下していたらしく、自宅で療養していた。民間療法にも頼ったが日に日に体力が落ちていく。
そんな中でも私は父に素直になれず、いつも生意気口を叩いて怒られ、父に「嫌いだ」「暑苦しい」と言ってしまっていた。
家族全員で食卓に並んだのは父の好きなカレーだった。翌日、あの強くて病院嫌いの父が「もう無理だ。救急車を呼んでくれ」と言って、それから家に戻ることはなかった。54歳だった。

大切な人との時間
それから私は高校卒業と同時に一人暮らしを始め、母との時間は減っていった。

幼いころの経験から大切な人との時間の尊さを学んだが、実際体現できているかといえば微妙だ。母には感謝しているが、帰省のたびに喧嘩しているし、感謝の気持ち改めて伝えることも恥ずかしくてできない。

そんなある日、インスタで大切な人との残り時間を計算できるサイトがあると知った。その名も「いっしょの時間」(最後にリンクを貼ります。)

母と私に残された時間
簡単な質問に答えるとこんな感じで母と一緒にいられる時間が可視化できる。ちなみにこの時間は物理的に同じ場所にいる時間ではなく、きちんと向かい合って話をしたり「その時」を共有している時間を算出しているらしい。

私と母の一緒にいられる時間(「いっしょ時間」より)

もう4か月程度しか母と一緒にきちんとした時間を過ごせないらしい。荒い計算だったとしても今の私にとっては、「次はいつ帰省しようかな」「帰省中はスマホをあまり見ないでいよう」「写真をたくさん撮るようにしよう」など、意識させてくれる素敵なツールだったので、皆さんにもシェアしたくなった。

※ジブラルタ生命のサイトです


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