障害年金の申請について、勇気を出してみた話[前編]
我が家の経済状況、みんなで苦しんで今進んでいることを、ここに記録しておく。少し進めた、自分のために。
いい歳だが私は現在、両親、妹と私の4人で暮らしている。
父は、高校卒業時からずーっと勤め続けた会社を、来年の春に定年退職する。退職後、再雇用という形でまた、その職場で働く予定だ。
母は専業主婦。メンタルが安定せず長年治療していて、今は働くことはできていない。
妹は、現在とある有名ディスカウントショップでレジを打ちまくっている。非正規雇用ではあるがフルタイムで、レジ部門ではいちばん長く勤めている(10年ほどになるだろうか)。
そして私は、鬱病治療10周年に突入しようとしている。社会人(保○士)6年目で心身が崩壊しそれから自宅療養。調子をみて短時間のパートで2回ほど働いたことはあるが続かず。現在、サポステのPC練習には通っているもののまだ働ける状況には至っていない。
父が働いてくれているので、母と私が働けなくてもなんとかなっている状況。ただ、家のことは父はほぼ関わってくれないので、母が全負担をしょっていて、それが母のストレス因にもなっている。
、、、、、、ということまで書くときりがないので。
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ここ1ヶ月の間に起ったこと。
父が再雇用で働くときのお給料が、今までの半額になる。
そのことを、つい1ヶ月ほど前に、母は父に知らされた。
家計のやりくり、これからのことを考えていた母は、
そんなの聞いていない、どうしてもっと早く教えてくれなかった、知っていたらもっと今まで節約できたことがあっただろう、
と、想定外の事実に大パニックになった。
母は、このことを私には、最初内緒にしていた。
聞いてしまったら私が、自分が働けないことを責めるのを知っていたから。
ただ、
母が妹にこのことを話しているのを、私は聞いてしまったのだ。
生活費を上げてもらうかもしれないと。
どうしよう。
私。
とはいえ、ずっと気になっていたことがあった。
それは、
私が、障害年金を受給するべきか否か。
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少し時を戻す。
これは、以前(5年以上前)通っていた総合病院でのこと。
そのときの私は、就活できるほど結構気持ちがやる気満々で、保育のパートにも出たが、4か月ほどで辞めることになる。鬱によって判断能力やコミュニケーション能力など諸々が低下していたこと、そもそもその職場がブラックだったことなどいろいろあるが、不完全な状態で命と向き合う仕事をしてしまった自分は、今思えば最低だと感じる。
その後、経験してきた保育系はもう探さないと決め、心の調子がよくなってきたらパート・アルバイトの面接、でも不採用。また不採用。そしてまた調子を落として休養。また挑戦するも、不採用。
この繰り返しに、もう仕事はできないのだろうか、と自分に自信がなくなっていた。
”仕事をしたいのにできない自分に悩んでいる”、ということを、診察時に話した。
すると、当時の先生は、
「障害年金というものがあります」
、、、、、、と、突然、私の想像もしていなかった話をし始めた。
「今のあなたは、3級に相当すると思います」
「いわば、片腕がないのと同じ状態で◎▼◇%★∬、、、、、、」
、、、、、、え?
、、、、、、、、、、障害?
、、、、、、、、、、年金???
え、私、働きたいのに、働けるようになりたいのに、
という話をしていたはずだったんだけど、、、、、、、
働かないでってこと?
障害?
片腕がない?
お金?
、、、、、、、とにかく、私の言いたかったことと、”障害年金をもらえるよ”という先生の話は、このとき、このタイミングではきっとかみ合っていなかったのだと思う。
先生が何か説明していたが、頭に入ってこなかったし、その後専用の部屋でいろいろ資料をもらったが、ネットで検索すればでてきそうなものがプリントアウトされただけだった。
帰宅後、腑抜け顔でこの話を母にしたら、
「あんたは障害者じゃないでしょ!」
と言われた。
また、その時もらっていた抗うつ薬が、女性ホルモンにかかわる副作用を起こしているのも気になっていたので、一度違う病院に行ってみたら?と提案され、私も薬のことは気になっていたので、それから現在通っているクリニックへ行ってみた。処方された抗うつ薬は奇跡的に体に合った。そして、そのまま通い続け今に至る。
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私は、このときの
「あんたは障害者じゃない」
という母の言葉をすごく覚えていて、その“障害”という言葉は、私にかかわることに使ってはいけないのだという、私なりの認識があった。
というのも、
母の友人には、実際に、障害者手帳を持って生活しているような家族と暮らす方がふたりいる。息子さんが自閉症(私の同級生)、そして旦那さんも不慮の出来事で半身不随になってしまった状況という方。そして自閉症(私の妹の同級生)の息子を持ちながら特別学級ではなく普通のクラスで教育を受けさせるべくがんばった方もいる。
その友人の話を聞いたり、実際に息子さんと関わったりしてきた母は、健常者とその子たちが一緒に生きること、その子たちが社会にでること、それに関して家族がどんなに大変な思いをしてきているかということを、ずっと感じてきた。
それがあるから余計に、普通に暮らしていて”病気”になっている状態の私に、”障害”という言葉を当てはめるのは適切ではないと、母が心から思っているのを私は感じていたのだ。
父の定年後のことがある前から、私は、経済的なことで家族に負担をかけていること、自分も我慢が増えていること、貧乏経験の豊富な母に「あんたは贅沢だ」と言われていること、、、、、、
もう、お金の話になると、どんどん具合が悪くなっていった。
我慢やストレスがよくないとされている病気なのに、これがずっと続く。
収入を得られない限り。
でも、回復しないと就活もできない。
負のループだった。
よぎるのは、”障害年金”という言葉。
これしか、今の私が何かを得る手段はないけれど、”障害”という言葉がつくから、きっと家族に反対されるし、”現状に満足できないのは贅沢だ”とまた言われるのではないかと思い、ずっと、もやもやしていた。
ずっと。
、、、、、、、、、ずっと。
ときどき調べては、
”初診の年月日がわからないといけない”
”科や病名が変わった場合は、初診のときの科の医師に証明書を、、、、、、”
というところにひっかかって、無理だなと思って諦めを付ける。
もう、何年経ってるんだよ、初診なんて。
ていうか、初診って、何科のときのだよ。
何個の科を回って精神科にたどり着いたと思ってるんだよ。
病院だって、円満に変えてきたわけじゃない、もう過去に通ってた場所なんて行きたくない、、、、、、
過去にさかのぼると、フラッシュバック的なものもあって具合が悪くなるので、今の私にはこの作業は無理かもな、、、とも感じていた。
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そういうことが、心のどこかにずっとあっての、
今回の、父の定年後の収入の件。
焦ったのは、
母が、みるみる具合が悪くなっていったこと。
私はずっと家にいるから、みていたから、明らかにわかった。
最初は、いつものように、父に対して腹が立ったら怒鳴ったりできていた母。
私に対しても、やることなすこと、いちいち怒り始めた。
(今思えば、これが初期段階)
「私ががんばればいい」
と、とある朝、母は繰り返し言っていた。
でも、私は父の件を聞いていないことになっているので、踏み込まないでいたが、これは、節約など、自分の力でなんとかしようと、母がまた全部背負おうとしているサインだった。
でも、徐々に、電気つけすぎとか、家事に対するダメ出しとか、私の行動にすごくしつこくささるようになった。無駄だとか、節約とか、厳しく言われるようになって、”もう、私わかってるから父のことをいっそ言ってくれよ、、、”と思ったけれど、怒号にパニックになりながらも、とりあえず母に従って生活をしてみていた。昨日話していたことが今日は違う、ということも多いから、私はまたパニックになるのだけれど、仕方がないと思って。
(言うことが定まらないのも、具合の悪いサインだった)
そして、そのうち、
母が、明日のメニューを決められない、ご飯を何号炊けばいいかわからないと、言い始めた。父と私で、決めてくれと。
その頃には、だいぶ母のメンタルはやられているなと感じていた。
私が食事を作れたらいいのだけれど、”その仕事をとられたら私やることなくなる”と普段は話している母。
このとき、自分からは言わなかったが、食欲もない感じだった。食欲がないと、食べたいものもわからないから、メニューなんて決められるわけないのだ。だから、毎日の買い物も、だんだんできなくなっていたようだった。
選択ができないのは、明らかな鬱症状。無限にあるメニューから、献立を考えて決め、食材を選んで購入するということは、鬱症状があるひとにとって、本当に難題なのだ。
そんな折、冠婚葬祭屋さんに行く機会があった。母と私で。たまたま、商売上手の、やさしいひとではあるが明るいが自分の話を一方的にたくさんするタイプのひとが担当になってしまい、私もだが、母も、帰ってきてからいろいろなことに気づき、メンタルの疲労が半端なかった。
このとき、母は薬を減らしていたタイミングだったようで、この日のストレスがしばらく尾を引いた。
ある日、母が「喪中はがきを送らないと」と言うが注文しに郵便局に行くのも不安そうだったので、私がついていった。「あなたのおかげで無事注文できた」とお礼を言われてしまった。私も具合が悪かったが、行く予定だったサポステ(PCの練習)を休んででも、母のそばにいることと、自分の心身を安定させることを優先した。
そして、そのうち、父の定年後の収入のことは、私にも伝えられた。
秋めいてきた夕方が、ただでさえ苦手な母。
ある日、
私が台所に行ったら、
暗い場所で、
床に座り、
棚にもたれて、
もう、生気を帯びない顔をしていた。
鬱病、真っ盛りの顔。
私がよぎったのは、
母が思い切り精神崩壊した、もう12年ほど前の、
風に吹かれたら飛んでいきそうな、生きていない顔。
このまま、死んでしまうのではないかと思った、あの時の顔。
一生忘れない、あの顔に、なりかけている。
私が働いていたときだったが、帰ってきて車を駐車しながら、
”台所で血を流して倒れていたらどうしよう”
と毎日、不安でたまらなくて、「ただいま」と言った後の「おかえり」が、あのときの最大の安心だった。
、、、、、、あのときの、生気のない、
どこかに意識が飛んでしまっている、
その顔が、よぎったのだ。
、、、、、、、、、、これはまずい。
焦るが、そうなると私は、どんどん体が動かなくなる。
そんな自分が悔しくて、でも、そばにいることだけ、とにかく。
鬱病の前から、母は、ストレスがあると咳が止まらなくなるという傾向があった。久々に復活していたその症状は、生気のない顔を見せてから数日後の夜、ひどくなった。私も咳が出ると止まらなくなるタイプなので、気にしないでほしいということもわかる。ただ、感情移入過剰病の私には、無理だった。一緒に苦しくなる一方。最終的に、母は吐き気まで起こし始めた。
ここまでの母の苦しみを、父はどう感じているだろうか。
父が健康で働いてくれていることで、家族が生きていけているのは重々承知だし、並大抵の努力では、同じ職場で高卒から定年まで、勤め続けるなんてできるわけがない。本当は、定年というか還暦を祝ってあげたいし、そういうのが親孝行だろう。ただ、、、、、、
私の立場からは、なんて言ったらいいのか。
その次の日。
お昼、母とふたりでいるときに、うちの経済面か、家族の話か、何か話していた。
はっきりと内容は覚えていないが、暗いテンションでの話か、真剣なこれからの話だったと思う。
私にとって、よきタイミングだと思える瞬間がきた。
私にできる、かもしれないことが、ここにあるよと。
伝えたかった。
今だ。
勇気を出して、私は話を切り出した。
「これ、もし私が考える必要ないんだったらないって言ってほしいんだけど、どうしても今、ここ(喉)につっかえてて話したいことがあるから、一回だけ聞いてもらってもいい?」
と。
まっすぐ、目を見て私の話し出すのを、聞いてくれようとする、母。
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少し、長くなりそうなので、次の記事に続けてみようと思う。
一旦、ここで締めよう。
いつまでたっても、要点がまとめられず前置きが長い、、、、、、
”動いてみる編”なので、ポジティブ回になる予定。是非読んでいただけたら幸いです。
誰かにとって、少しでも、進んでみるための力になる記事が、書けますように。