ハラスメントの病理 - 最近何をしたか 11/10-11/20
カスとカス
ただなんとなく思うことだが、世の中の流れの中で最近カスハラという言葉をよく聞くようになった。カスタマーハラスメントということらしいが、なんでも訳すのだなと思い、パワハラモラハラモンペ等々あるなと思った。そうしていれば私の家族の会社でもカスハラに対する講習会などが行われているということを聞いた。偉そうな客というか、それ以上に殿様気分の顧客はいるもので、本当にお客様は神様ですという言葉をそのままに信じていたり、本当にその言葉を使って罵るバカだともいえる。単なる拝金主義の人間なのか、真剣に考えることもない。サービスや商品を提供する側と、カスタマーは同等の人間で、同じバランスの上に成り立っている。そこにお金を払っているからどちらが上位ではなく、お金を払っているからこそ同じバランスが成り立っているのだ。それが分からない。
お客様は神様ですという言葉は演歌や浪曲の歌手だった三波春夫さんの言葉だとされていた。私が物心ついたときからその言葉は存在していたが、その意味を考え始めるころには、お客様とはオーディエンスのことで、カスタマーのことではないということもすでに聞いていた。それは三波春夫さん側が言ったのか、普通に考えたこころある人が言ったのかは分からない、しかしそういうことは知ってるし、知らなくとも考えれば到達できると思う。それは当たり前の事柄だからである。すべてをなげうってでも応援してくれるオーディエンスは芸人からすれば神様と思えるだろうし、それはお金を対価にしてサービスや製品を受け取る場合とは違う。彼はそう言ったのだろうというのは少し思いを巡らせれば分かるはずだ。
だが現代はどこへ行ってもその言葉を誤用して、自己の権利として騒ぐ人間がいる。そこのスーパーでも居酒屋でも、どこでもだ。怒り散らし叫ぶ。とんでもない迷惑者でとんでもないバカとしか言いようがない。それと同時に電話でのカスタマーサービスも酷いと聞く。家族の会社の講習もその話だったようだ。電話の向こうのカスタマーサービスの人の顔や表情も見えず、自分の顔が相手に見られないからか罵詈雑言が飛び出す。普段なら何も言えない人でも通話だからか、表情というか顔を見られないからか、毒の思いをぶちまける。そういう人がいるのだ。罵詈雑言の時点で建設的な会話ではなく、中にはカスタマーサービスに電話をかけて不満をぶちまけた、ということをまるで武勇伝のようにいう人もいる。
AIチャットボット
一方でLLMの存在を考える。音声認識や音声合成、そういうものが加速度的に発展している。これらのLLMによるいわゆるAIチャットボットが発展すれば人間に置き換わり、カスタマーサービス用途のAIチャットボットへの置き換えが始まるのだろう。そういうことを考えていたら、最近AIチャットボットに負の感情をぶつけることにより、それが改善されるという研究が発表されたことを知った。考えてみれば大いにあり得ることだ。音声認識や音声合成が今よりも進化し、人間のように自然になるとすれば感情的に知性のあるAIチャットボットというものは人間に対して大きな力となる。それは怒りや不満、不安などの負の感情を抱えた人を助けるものになるかもしれない。
病理
一方でカスタマーサービス側は医者ではないのでAIチャットボットを使いカスハラの顧客に対してはあしらうという方向になるのだろう。AIチャットボットが上手にあしらうので、釈迦の掌の中のように気づかずいい気持であしらわれるのかもしれない。カスハラの顧客としては、気づかずにあしらわれ、受け流されてゆく。そういうシステムの構築がされるのではないだろうか。一朝一夕にはいかないにしても、LLMの進歩を見ていると遠くない気もしている。一方で一般企業は病院や医者ではないのでカスタマーに対してそれ以上のことはする必要がない。上記のようにあしらって、受け流し、人為的コストや時間の無駄を省くだけで、それが対処へのゴールとなるのだろう。
だがこの考え方自体はAIチャットボットによる心理学的な側面や、病理への対処、そういうものに活かされるのではないだろうか。効率がすべてではないが、サービスを提供する側と対価を払ってそれを受ける側が対等だと気づけぬ人間、そういう病理を抱えた人間には呆れるばかりだし、毅然とした対応を取れないサービス側の難しさも感じていた。だが、それにAIチャットボットを使い心理学的な病理にまで踏み込んで、病院とはまた違った形で改善できるようになるのならいいことではないだろうか。そのシステムを作ったり、どう啓蒙するかなどの問題はまだ先だが、ハラスメントから道は分岐して、先に続いている最中にしろ、結局はそれらはいいことではないだろうか。そんなことを感じている。
脳でみる真実
さまざまな媒体から伝わってくるのは、知恵や知識だけではなく、感情や現象だ。古のプリミティブな媒体といえる紙でも、どんな内容をも表現することはできる。違いは現実のそれぞれによって生成された真実を受け取るか、ある程度デフォルメされ言語化されたそれを受け取り、真実として自己内部で生成するかという違いだろう。それらは違うものだが、どちらがより豊かなのだろうか。それともどちらも豊かなのだろうか、どう感じるか、どう生成するかも個人や経験で違う。
思考喚起
音楽は思考をめぐらせる上で一助となったり、新たな思考を呼び起こさせるきっかけになったりもする。ただ感覚的に聞いていることも多いが、聞いていると思考や物事の奥深くに連れてゆかれることもある。反対にこころを落ち着かせることもある。私のいうネルチルだ。寝るときに聞くチルアウトのことを指すが、逆説的に激しいビートの曲も心地よい。そんな激しいビートでもなんとなく気持ちを落ち着かせるのだ。そういう相性もある。音楽を聞くのが好きというよりも、いつも同時に存在しているという思いはそこにもある。
スケール
わたしとなにか、分からないものだけど重なって。星のよう。見上げる星に、図鑑で見る銀河に、あんなにたくさんの星があるなんて信じられないと、つぶやいた。そうすれば、下を見てよ、回りを見てよ、人々の数。どれほどの人がいるのだろうね。そしてぼくらを構成している素粒子を見てよ。ああ見えないね。それに案外少なかったりするのかもね。なんて教えてくれた。そんなあなたも星のようなもの。どういう軌道でどういう重力なのだろう。だけど回りに影響している少なくとも惑星か恒星さ。