【おはなし】 初出勤の前日に
明日から新しいお仕事が始まる。
僕は何回転職をしても初出勤の前日は緊張する。朝はまだいいんだ。明日に向けて必要な荷物を用意したのか確認をする程度。前もって準備しているから慌てることはない。
軽くストレッチをして読書をして気を鎮める。お日様にあたりながら近所を散歩して足腰を慣らしておく。軽めのランチを食べてお昼寝をして、夕焼けを眺めながらのんびりと過ごす。
夜になると早めにお風呂に入って夕食の時間。緊張度が高くなってくるから缶ビールを1本だけ飲む。2本以上飲んじゃうと朝寝坊するかもしれないから気をつけないと。
緊張をほぐす意味も込めてアルコールを摂取するんだけど、あまりリラックス効果を感じないのはどうしてだろう。
「新しい環境に馴染めるのかな。職場のみんなと仲良くできるかな。本当に僕でいいのかな」
頭に浮かんでは消えていく不安な思いは、ビール1本じゃ消えてくれない。
こんなとき、僕はひとり遊びをする。
白い紙とボールペンを用意して、もうひとりの僕と会話をするのだ。
☆ ☆ ☆ ☆
「不安なんだね」
「そうなんだよ。ビールが効かない」
「そりゃそうさ。発泡酒だもん」
「そっか。ケチったのがまずかったか」
「おつまみのポテチもダメさ」
「なんで?」
「ポテチは映画を見ながら食べる物だからさ。君の場合はね」
「たしかに。僕は映画を見ながらポテチを食べるのが好きだもんね」
☆ ☆ ☆ ☆
こういった言葉のラリーを繰り返していくと僕の心は落ち着きを取り戻すんだけど、どうやら今夜はうまくいかないみたいだ。
「音楽を聴くのがいいかもしれないぜ。夜勤のとき、電車に乗りながら聞いてた曲をかけてみなよ」
僕はiTunesを操作して、あの日に聞いてた音楽をかけた。
☆ ☆ ☆ ☆
21時の電車の中。
都会へと向かう反対側の車両には、お疲れ顔をしたスーツ姿の男性が多く見える。1日の仕事を終えて、これから自宅に向けて帰るのだろう。残業して疲れ切った体を早く休めたくて仕方がないような顔に見える。
僕はこれから都会とは反対側に向かう電車に乗って工場に行く。24時間フル稼働の工場は今日も休まずに運転を続けている。
空いてる座席を見つけても僕は他のお客さんが座りたいのを知ってるから立っている。山へ向かうほどに乗客が少なくなり、大きな川を越えるときには、僕は空いた車内で座りながら音楽を聞いている。
イヤホンの隙間からうっすらと聞こえてくる車輪が線路の上を回転する音は、川の近くに差し掛かるとわずかに音が変わる。僕は窓の外を見る。明るい車内の景色が窓に反射している。川を見たい僕は水中眼鏡をかているみたいなポーズをして窓に手を付ける。両手の小指が窓ガラスに触れて冷んやりとする。僕の息がかかった窓は白く曇っていく。川の上を通過する間、僕はじっと暗闇を見つめていた。
☆ ☆ ☆ ☆
「悪い職場じゃなかっただろ?」
「そうなんだけどね、僕は夜勤に向かう電車が嫌いだったんだ」
「どうしてさ」
「どうしてだろう。夜中に働くのはすごく大きな間違いを犯しているような気がしていたんだ」
「その考えは反対側の世界を担当してくれているひとたちに失礼だね。たとえば夜中に荷物を運んでくれている長距離ドライバーさんとかさ」
「そうだね。僕はすごく失礼な考えをしているみたいだ」
「キミが感じたことを素直に表現したのは別に悪くはないよ。当事者に向かっては絶対に言ってはいけない言葉だということを忘れないことだね」
「うん。気をつけるよ」
「たぶんだけど、キミは大丈夫だよ」
「そうかな?」
「そうさ。これまでにキツイ仕事だってやりきってきたんだ。失敗したこともあるけど、それも経験さ。あの工場での夜勤に比べたら、どんな仕事だって天国に思えるはずだよ」
「そうそう、そうなんだよ。みんなが寝ている夜中に働いている自分がとても間違っているような、歪んでいるような、変な世界に迷い込んだみたいな感覚だったんだ。作っていたのは人々に役に立つ商品だったけど、僕の生活には身近な商品じゃなかったし。手袋をはめないと指が冷たくなりすぎる1月の午前2時に、水を使って道具を掃除していたんだから」
「もう辞めてやる、って毎日考えていたよね」
「そうそう。辞めますと言い出せなくて約束の期間を満了して退社したんだ。最終出勤日が夜勤でさ、帰りに駅前の定食屋さんで食べた焼き魚定食がおいしくって、おいしくって。ごはんを4杯もおかわりしたんだった」
「いい思い出じゃん」
「そうだねぇ〜」
☆ ☆ ☆ ☆
振り返ると大抵のことは綺麗に見えるから不思議だ。時給は高かったけど精神的に辛かったお仕事だったな。
今回のお仕事は時給がそれほど高くはないけど、僕が興味のあるお仕事だから、たぶん大丈夫。
白い紙には僕のひとりごとが書かれている。4つに折って色えんぴつでタイトルを書いてみようかな。なんとなくだけど、遠足のしおりみたいだ。
初出勤の前日は、遠足の前日と似ているかもしれない。
「ビールがうめぇな〜」
明日の今頃、僕は叫んでいるはずだから。
おしまい