【おはなし】 仮眠室とモーニング珈琲
午前5時。
今日もあいつは近隣住民の睡眠なんて気にしない音量で配管を叩いている。あいつは右手に持った金槌を振りかぶり、まるで自分が甲子園で優勝するシーンを思い描いているかのようにチカラを込めて右手を振り下ろしている姿が目に浮かぶ。
この時間には、まだ眠りについている住民がいると私は何度も彼に注意したはずなのに。
あいつは私の言うことをほとんど聞いちゃいない。いや、私を目の前にしたときのあいつの目には私に対する恐怖心が写っているのを確認できる。つまり、あいつは私に怯えてはいるが、私がいなくなれば私という存在はあいつの中から綺麗さっぱりと消えてしまうのだ。
仮眠から目覚めた私はヘルメットを被り次の取り出し準備へ向かう。おっと、その前に警備員室へ作りたての珈琲を届けるのを忘れてはいけない。
イタリアから出稼ぎに来たというバジルは私の作る珈琲をうまいと喜んでくれる。私としては本場のイタリアからやってきた大男に褒められると悪い気はしない。特別な方法を使って作っているわけではない。この工場の水が不純物を取り除いているからうまく感じるだけだ、と私は自分の腕前を分析している。
私はコーヒーカップに溢れんばかりの黒々とした飲みものを入れると、こぼさないように素早く歩いていく。私の歩き方は独特で肩の位置が上下しない。バジルに言わせるとそれほどスムーズに歩行できるのなら特殊部隊のエースとして活躍できるという。悪い気はしない。私だって男なのだ。自分が秀でていると思えるナニカがあればそれだけで気分は上向きになる。
警備員室の入り口でバジルが私を待ち構えていた。長身の男は私を見下ろしながら軽い挨拶を投げてきた。
「おはようございます、シルバー」
「ああ、おはよう、バジル」
「今日も足音を感じさせない歩行。ワタシの聴覚が乱れたわけではなかったのですね」
「いつも通りに歩いただけさ」
バジルは身をかがめ、私の手にあるマグカップにくちをつけると、ひとくち、ふたくちと珈琲をすすりはじめた。マグカップが揺れても中身が溢れない空間を作り終えると、私の手からカップを受け取った。
「いつもより、多少ですが熱く感じます」
「そうか。気をつけることにする」
私はバルジに珈琲を届けると彼から新聞を受け取った。
「それではシルバー、よい1日を」
「ああ、キミもな」
私は第4工場へと向かった。
小さい方の扉を開けて私は中へと入っていく。
大きい方の扉は上下の開閉式になっており、ドラム缶や薬品などを積んで通る走行車が出入りするために取り付けられている。開閉するには壁に埋め込まれているスイッチを押す必要がある。防弾チョッキにでも使えそうなくらいに頑丈な素材のシャッターが音を立て、天井へ巻き付けられていくのを待つほど私には時間の余裕はない。
第4工場の中に入ると私は左手にある階段を登っていく。緑色に塗装されている手すりに右手を滑らせながら歩いていく。
階段を登ると正面にある扉を開ける。この扉の上半分は透明ガラスになっているので中の様子が外からも見える仕様になっている。私はヘルメットを脱ぎながら数時間前となにも変わりがないことを瞬時に確認してから中に入っていった。
背もたれのある椅子がひとつだけ反対側を向いている。その席はあいつが座っている定位置だからいつものように慌てて飛び出ていったのだろう。管理画面のモニターには通常運転が行われている印の緑色のランプがついている。反応釜の温度が多少低いのが気になるところではあるが許容範囲なのでこれ以上空気を送る必要はないだろう。それにこの原因はあいつが配管を叩いたことによる温度低下が絡んでいるはずだ。
私は自分のデスクの上に新聞を置き、管理画面を見ながらあいつの動きを注視する。クリーンルームは2つありどちらの部屋にも前室にカメラが設置されている。作業員である私たちが手順通りに作業をしているかを監視されている。
私は画面であいつの動きを確認する。あいつは今クリーンルームで製品の取り出し作業をおこなっている。真っ白いクリーンスーツに身を包み、両手には青色の二重手袋が透けて見えている。頭全体を覆い隠せる頭巾を被り足元には長靴を履いている。ゴーグルとマスクも着用して作業をしている。ちゃんと手順書通りにあいつは作業を進めていく。
私は新聞を読みながらあいつがふたつめの部屋に入っていくところだけを確認する。ひとつめの部屋で作業を終えたあいつは、ちゃんとクリーンスーツを脱いで作業着に着替えてからひとつめの扉を出てふたつめの部屋に向かっていった。ふたつめの部屋に入ると前室で作業着からクリーンスーツへと着替え終えるとあいつは作業を開始した。
問題はない。
私は新聞を読み続けた。
しばらくすると、クリーンルームへと続く扉が開きあいつが姿を現した。
「ボス、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「作業は滞りなく進んでおります」
「助かるよ」
あいつは私を見つけると、踵を合わせて背筋を伸ばし敬礼のポーズを取ってから報告を終えた。私にはいくつかの細かい点が気になったのだが何も言わないことにした。朝から大声を出せるほど、私はもう若くはない。
「このまま仮眠室に向かっても大丈夫でしょうか?」
「ああ、ゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます」
あいつは再び敬礼をすると、ヘルメットを被り階段を降りていく。私が余分に作った珈琲が待つ仮眠室へと歩いていった。
おしまい