エッセイ | 独我論者協同組合を作ることは可能か?
哲学用語に「独我論」という言葉がある。簡単に言うと、この世に存在する者は「私一人」だけであって、他人は自分の作り出す概念的な存在に過ぎない、という考え方のことである。
直接的に関係はないが、ももまろさんの記事(↓)を読んで「独我論」のことをなんとなく思い出した。
孤高の天才が独我論者とは限らないが、少し似ているところがある。
孤高の人は、他人がどうであれ、自分の気高さを失わない人である。他人の存在を否定しているわけではないが、他人に影響されずに、自分の信念に従って自らの生を貫く。
生粋の独我論者は、他人の存在を認めない。目の前に存在する他者は、あくまでも自分自身が作り出した「観念」に過ぎない。存在するのは「私」だけである。
ここからが本題。
もしも独我論者ではないあなたの目の前に、二人の「独我論者」がいたとする。
「あんたたちさ~、おんなじ独我論者なんだからさぁ、手を組んだらどう?」
独我論者Aにとって、あなたと独我論者Bは単なる「観念」に過ぎない。
独我論者Bにとっても、あなたと独我論者Aは単なる「観念」に過ぎない。
あなたにとっては、独我論者Aも独我論者Bも観念ではなく、「実在」する二人である。
では、あなたも含めてみんな独我論者だとしたら。
3人とも独学論者であるから、自分以外の2者は単なる観念に過ぎない。しかし、観念としては「私」の中に存在する。
独我論協同組合を作ることは、「私自身」と「私自身の作り出した観念」とが手を結ぶことは可能か?、ということだろうか。
ちょっとわけの分からない話になってしまったが、「孤高の天才」に弟子入りすることは可能だろうか?
孤高の人が独我論者でなければ、少なくともあなたは単なる観念ではなく、実在する存在である。問題は、あなたが弟子入りした瞬間に、孤高の人は「ひとり」ではなく、「ふたり」になってしまうことである。
しかし、孤高の天才が弟子をとったとしても、「お前が勝手に技を盗むのは自由だ」と言ってあなたを放置すれば、孤高の人は孤高のままだと言えるかもしれない。
むすび
自分自身は、独我論者なのか?、と考えてみると、独我論者ではないが、ときどき独我論者的な振る舞いをすることで、心の平衡を保っているような気がする。
目の前に人がいれば、明らかにそこには、私がどう考えようが疑いもなく、私の観念ではなく他人が実在すると思う。
しかし、独我論者の如く、あえて他人は私の観念に過ぎないと思うことで、他人などに振り回されるな!と思うことができる。
相手が自分と同じように、切れば血が出る存在だと思うと、相手がどんなに理不尽でも、非情になりきれず、自分の心が傷んでしまう。独我論者になれたならば、どんなに気が楽になることだろう。
しかしながら、独我論には、非常に危険な側面があることを自覚している。それが「これだ!」とハッキリ言うことはできないのだが、独我論に深くはまることはできない。せいぜい、ときどき独我論者になるくらいの中途半端な思想の持ち主である。だから私は哲学者ではなく、妄想哲学者とプロフィールに書いている。
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