哲学 | 美とはなにか?
はじめに
この記事では、カント的な考え方にしたがって、美について考えてみます。私自身の理解は中途半端だと思いますので、詳しくは「判断力批判」をはじめとする三批判書をお読みください。また、学術的な論文ではないので、意図を伝えることを重視します。それゆえに、正確さに欠ける記述があることを、最初に注意喚起しておきます。
(1) カントの三批判書について
カントの主著は「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」という三批判書です。
いずれも広い意味で「理性」を扱ったものですが、ザックリと言うと、理性の領域を3つに分けて考えています。3つの領域とは「純粋理性」「実践理性」「判断力」のことです。
もちろん人間の理性は、それぞれ関係性を持っているので、きれいに分割できるわけではありません。しかしながら、おおむね次のように理解しておくと良いでしょう。
広義の理性=純粋理性(狭義の理性)+実践理性+判断力
純粋理性は「純粋理性批判」で扱われていますが、端的に言えば「私たちは何を知ることができるのか?」という学問に関する内容です。
実践理性は「実践理性批判」で扱われていますが、「私たちはどのように生きるべきか?」という倫理・道徳に関する内容です。
判断力は「判断力批判」で扱われていますが、「私たちは何を美しいと思うことが許されているのか?」という美学・審美・崇高に関する内容です。
ザックリと整理すると次のようになります。
純粋理性=(数学など)学問を理解する力
実践理性=倫理的に生きる力
判断力=美を理解する能力
ということで、「美」について深く考える際には、とくに「判断力批判」を読む必要があります。
(2) 「判断力批判」の世界
カントは美を認識する時に発揮される「判断力」を「規定的判断力」と「反省的判断力」に大別しています。規定的判断力は「客観的な判断力」、反省的判断力は「主観的な判断力」と言い換えてもいいかもしれません。
たとえば、正三角形を見てあなたが「美しい!」と思ったとしましょう。このとき、「正三角形は3つの辺の長さが等しいから美しいのだ」とか「3つの角がすべて60度だから美しい」と判断したなら、それは「客観的」な事柄に属しますね。このような判断は、理性を備える人間ならば、誰でも理解することが可能です。誤解を恐れずに言えば、数値的に測定できる美しさを認識できるかどうかが「規定的判断力」の意味するところです。
次にあなたが夕焼けを見て「美しい!」と思ったとします。夕焼けの美しさは光の加減や色合いなど様々な要素から生まれるものであり、光の色や強さは「規定的判断力」によれば、他の人とも共有できるでしょう。
しかしあなたが夕焼けを見て「美しい!」と思うとき、いちいち数値化して美しいと判断しているわけではないですよね?
あなたが「美しい!」と思ったから「美しい!」だけです。その意味で、夕焼けの美しさは、あなたの「個人的な主観」に過ぎません。このような主観的な判断をくだす力を、カントは「反省的判断力」と名付けました。
日常的な場面で使う「反省しなさい!」と言うときの「反省」とはかなり異なる意味でカントは「反省」という言葉を使っているので、判断力批判を読む際にはご注意ください。
(3) 反省的判断力は主観に過ぎないが…
(2) で書いたように「反省的判断力」は極めて「主観的なもの」です。
しかしながら、あなたが夕日を見て「美しい!」と思うとき、規定的判断力に依らずとも、その美しさは他の誰でも「美しい!」と思うに違いないという確信があるはずです。
実際に、夕焼けを見ればたいていの人は「美しい!」と感じることでしょう。
しかし、だからといって誰でも共感するであろう美しさも、いざ言葉にしようとすると、必ずしも何を根拠にしているのか、という意味で不明であり、「絶対的に美しい!」とは言えませんね。
けれども、反省的判断力に美の認識は主観でありつつも、あたかもそれは「普遍的な妥当性がある」かのように思う心が人間には備わっています。
唐突ですが、話は「実践理性」に飛びます。カントの倫理学においては、「どのように生きるのか」を最終的に判断する根拠は、「内心の法廷」にゆだねられています。自ら立法した格率(格律)が普遍妥当性を持つものと考えて行動します。しかしその根拠は、格率が普遍的に妥当することを「尊敬」するという理性に過ぎないので、それが本当に他人と共有できるものなのか?、という疑念は残ります。
カントは「判断力批判」の中で次のように言っています。
「美しいものは道徳的に良いものの象徴である」
「美しいものは道徳的に良いものである」と言い切っているわけではなく、「象徴である」と言っていることには、注意しなければなりません。ただ、個々人の実践理性による格率が合意に達することができるとしたら、「反省的判断力」による主観的な美の意識を「普遍的な妥当性がある」とすべての人が確信できる時に訪れるのだろうと、私は思っています。
同じ美しいものでも、その時々によって美しいと思えたり思えなかったりと異なってしまう原因は、カントによれば「目的が異なること」です。
同じ曲線の道であったとしても、「庭全体の調和している」あるいは「歩けば自然と庭全体が見渡せる」という目的から考えれば「美しい!」のですが、「最短距離で対象物に近づく」という目的から考えると、「直線のほうが美しい!」となります。
すべての人が目的という考え方を超えて「無条件に美しい!」と思えるものを見いだすことができたなら、それが「美」というものなのでしょう。
結び
出典が不明で、おそらくドストエフスキーの独自の言葉だろうと言われている言葉が「白痴」に書かれています。
それは「美は世界を救う」という言葉です。
裏付けは出来ていませんが、ドストエフスキーはカントの「判断力批判」を読んで「美は世界を救う」と言ったのではないか、と私は考えています。
カントは実践理性と判断力を分けて考えていますが、倫理的に正しく生きるためには、最終的には美に関する個々人の判断が理屈を超えて「美しい!」と思えるものに出会うことができるか否かにかかっているのではないでしょうか?
追記
美を語るには「合目的性」「無目的性」について触れないわけにはいかないのですが、この記事では簡単に言及することにとどめました。いずれ別稿で書きたいと思います。
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