読切短編 | 南千住駅の友情
(1)
年の瀬が近づいていた。長年温めてきた夢が叶う。私は久しぶりに南千住駅にほど近い小塚原刑場跡地で、玄白と会う約束をした。
いまだに使い慣れぬ天国LINEで、天国1番街に住む彼に連絡した。
「おお、良沢か。懐かしいなぁ。元気にしていたか?お互いに死んでしまっているけどな。閻魔大王様の『下界滞在ビザ』を取得できたよ。君と同じ、2024年12月30日に滞在許可がおりてよかった。では、小塚原刑場跡地で会おう」
現世で莫大な資産を築いた玄白は、『あの世ヒルズ』のタワマン最上階に住んでいた。同じあの世でも、私のように地獄にほど近い天国の限界集落に住んでいる者とは違う。私は今もオランダ語を学習しているが、玄白は贅を尽くした生活をしているらしい。身分が違いすぎる。だが、1日だけ下界を訪れるチャンスがあるならば、やはり玄白に逢いたいと私は思ったのだ。自分でも驚くほどワクワクしながら、彼との再会を望んでいた。
(2)
約束の日になった。予想以上に「この世へようこそゲート」は混雑していた。
「前野良沢さん、こんにちは。行き先はお決まりでしょうか?」
「昔の小塚原(骨ヶ原)へ。現在のJR南千住駅辺りへ行きたいのですが」
「左様ですか?これが『あの世リターン・チケット』になります。滞在時間は24時間です。記載されている時間に近づきましたら、このチケットを食べてください。そうしたら、ここに戻って来ることができますよ」
「万が一、時間が過ぎてもチケットを食べなかったらどうなりますか?」
「その場合は、あなたの魂は、『あの世』にも『この世』にも、とどまることはできません。永遠に虚空をさまよい続けることになります。ご注意くださいね」
私は係員にビザを呈示して、ゲートを通過した。
(3)
ゲートは難なく通過できた。次の瞬間、気が付いた時には、私はJR南千住駅の雑踏の中に立っていた。
おおお!これが現代日本なのか?
しかし、感傷に浸っていてはいられない。早く小塚原刑場跡地に向かわねば、あっという間に時間が過ぎてしまう。しかし、ホントに様変わりしたものだ。一応、『あの世Google』で下調べしておいたが、実際にこの場所に立ってみると、右も左もよくわからない。
その時、背後から懐かしい声が響いた。
「おーい、君は良沢ではないか?」
私が振り向くと、そこには杉田玄白が立っていた。
「あぁ、玄白か。すごく久しぶりだな」
「全くだ!同じあの世に住んでいるのに、出会うのが現世とはな」
彼はまったく変わっていなかった。弾けるような笑顔はあの頃と同じだった。
「じゃあ、さっそく僕たちが立ち合った腑分けの現場に行ってみるか」
玄白は懐からスマホを取り出し、器用に操作した。
「ここから歩いて数分だ」
私たちは、Googleマップの音声に従って南千住駅を出た。ほどなくして、鎮座している仏の石像が見えてきた。
「あそこだ!」玄白が無邪気にはしゃいだ。
辺りの様子は、私たちが腑分けに立ち合った時とは様変わりしていた。しかし、妙に懐かしい気持ちになった。
「ここで、青茶婆の腑分けを見たんだよな」玄白は感慨深そうに呟いた。
(4)
青茶婆とは、極刑に処せられた女だ。盗みの常習犯だった女。青茶婆とあだ名されていたが、思ったより若そうだった。
当時、私は早く腑分けの様子を見たい一心だった。しかし、玄白が開口一番に言ったのは「この女の両乳は異様にデカいな」だった。
「では、さっそく始めますよ」
腑分け人が淡々と語った。
腑分けが始まった。まさに聞きしにもまさるものだった。ターヘル・アナトミアの記述と悉く一致していた。
最初はおちゃらけていた玄白も真剣そのものになった。
「このオランダ語を我が国の言葉に翻訳できたならば、我が国の医学は飛躍的に進歩することは間違いないだろうな」
私も彼と意気投合した。腑分けがあった次の日から、私たちは日本橋人形町に集い、ターヘル・アナトミアの翻訳に取りかかった。
知らないオランダ語の単語を前にして、私たちはほぼ3年の間、頭を悩まし続けた。たった1つの単語に引き留められて、「あぁでもない、こぅでもない」と激論を交わしたものである。
しかし、先に進むうちに、理解可能な単語が増えていった。前半部分を翻訳するのには2年ほどかかったが、後半部分の翻訳は1年もかからなかったと記憶している。
最後の一行を訳し終わったときの充実感は忘れられない。
「ようやくたどり着いたな、良沢」
そう微笑みながら私に語りかけた玄白だったが、次の瞬間、彼は言い放った。
「あとは、この本をどう出版にこぎ着けるかだな」
正直に言って、私は「解体新書」の出版にはまるで興味はなかった。翻訳の過程で覚えたオランダ語をもとにして、オランダ語で書かれた書物を読み解きたいと願っていた。
「玄白よ、私はオランダ語学をきわめたい。解体新書の出版は君たちにまかせるよ。それに不完全な翻訳だから、私の名前は載せないでほしい」
今思えば、これが私と玄白が現世で交わした最後の言葉になった。
(5)
安永2年(1773年)、「解体約図」が出版された。家治公の時だった。当時、幕府の態度は、朱子学を基本としつつも、蘭学にも寛容だった。
しかし、玄白は「解体新書」の出版の際には、念には念を入れた。いきなり発表して発禁処分になってはひとたまりもない。だから、解体新書の全てを一度におおやけにするのではなく、簡略化した「解体約図」を観測気球として打ち上げたのだった。さいわい、幕府からはなんのお咎めもなかった。玄白は安堵した。これなら、フル・バージョンの「解体新書」を世に出しても問題はあるまい。
翌年の安永4年(1774年)、満を持して「解体新書」が発行された。日本の医学の水準を一気に押し上げる画期となった。
私は思う。のちに異国船が頻繁に来航して、危機感を強めた幕府は、蘭学の弾圧に転じたのだから。優秀な老中であることに異論を挟むつもりは毛頭ないが、松平定信が権勢を振るった時代だったならば、「解体新書」は世に出ることはなかったことだろう。
(6)
「どうしたんだ?良沢よ」
小塚原刑場跡地で感慨に耽っていた私を、玄白は怪訝そうに見つめていた。
「あぁ、『解体新書』出版の頃を思い出していたのさ」
「そっかぁ」それ以外に玄白は何も言わなかった。
沈黙の時間が続いた。あっという間に、あの世に帰らなければならない時間が迫ってきた。
私は『あの世・リターン・チケット』をポケットからとりだした。そろそろ食べようかと思っていた。
「良沢!待った!」
玄白は私がチケットを食べようとするのを遮るように言った。
「実は、僕はこの現世に10年とどまり、我が国医学の更なる発展のために身を尽くしたいと思っている。迷惑かもしれないと思いつつ、良沢の10年滞在ビザもここに用意しておいた。どうかな?君も現世で医学の発展に貢献してみないか?」
さすがは玄白だ。処世術に長けている。
「いや、僕は遠慮しておくよ。あの世に戻り、早くオランダ語をもっと研究したいから」
玄白は残念そうに言った。
「そうか、君は変わっていないな。僕はもう一度、この世で医学に貢献したい。『動脈』『神経』『軟骨』という、僕たちの作った言葉を商標登録すれば、資金には事欠くことがないだろうし。AI手術ロボットの技術向上を後押ししたいと思っているんだ」
玄白はやはり玄白だった。
「私は君のことを否定しない。だが、私は実利的なことには関心がない。私の夢はあくまでも、オランダ語を極めることにあるから」
玄白はニッコリと笑った。
「もう僕たちは、この世でもあの世でも会うことはないかもしれない。だが、良沢よ、君のことは他の誰よりも尊敬しているよ」
とても心のこもった玄白の一言に、私は涙を禁じ得なかった。
「玄白、本当にお気遣いありがとう。君のことは永遠に忘れないよ」
私は涙で濡れたリターン・チケットを口に入れた。そして、かたく握手した玄白の手の温もりを感じながら、再びあの世に戻っていった。オランダ語学を極めるために。
…おわり
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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします