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ことばの「乱れ」について
いつの時代でも、ことばというものは乱れていく。
「乱れ」とはあくまでも世俗的な言い方で、言語学では「変化」という。「乱れ」と表現するより、「変化」というほうが、価値中立的だからだろう。
よく「ら抜き言葉」のことが言及される。「食べることができる」という意味で「食べれる」(正しくは「食べられる」)、「来ることができる」という意味で「来れる」(正しくは「来られる」)のような。
「正しくは」と書いたが、学校で教えられる文法や放送局などで用いる場合は、「食べられる」や「来られる」のほうが望ましいというだけのことである。
助詞の「れる、られる」には、大きく分けると、「受け身」「尊敬」「自発」「可能」の4つの意味があるが、「ら抜き」されるのは、「~することができる」という「可能」の意味で用いられるときに限られている。
「来られる」と言うと、偉い人が「いらっしゃる」という意味で言っているのか、それとも、「来ることができる」という意味で用いているのか区別できなくなってしまう。
「ら抜き言葉」は意外と理にかなっているのだ。
だからわたしは、「食べれる」「来れる」という言葉に、そんなに目くじらをたてるつもりはない。自分では極力使わないようにしているけれども。
「言語学」では、どんな言葉にも当てはまる性質として、次の2つを挙げている。
ひとつ目は、「線条性」(あるいは「線状性」)。どんな言語でも、直線のように「語」を並べる。一度に、異なる音を発することができない。
ふたつ目は、「二重文節性」。1つの文は、単語に分解することができ、単語は「音」に分解することができる性質。
例えば「私は本を読む」なら
単語に分解すると
「私/は/本/を/読む」。
音を分解すると
「わ/た/し/は/ほ/ん/を/よ/む」。
(*さらには音素に分けることも可能)
わたしはこの「線条性」と「二重文節性」に加えて「変化すること」を言語の性質に加えてもいいのではないか、と考えている。
どんな言葉でも「変化する」。戦争のような「人為的要因」で言語が変化することもあるが、そういったことがなくても、言葉は変わってしまう。
かつて、ザメンホフは「エスペラント」を共通語として提唱したが、人工語だって変化してしまうだろう。
ことばが変化する要因は、人それぞれ、たくさん考えることができるだろう。しかし、理論的に「これが原因だ」と説明できないものかなぁ、とたまに考えている。
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