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読書『夏物語』

『夏物語』 川上未映子

2024年は前々から考えていた読書会を始めることができた年になりました。本当は初夏に始めるつもりでしたが、開催場所の問題で延期し、11月になってようやく開くことができました。集まっていただいたり興味を持っていただいたみなさんには感謝しかありません🙏

最初に開催するまでの間には、読書会で話すための練習も兼ねて、こうしてSNSで読書感想文を書くことも始めました。自分が感じたことを言語化して振り返ったり、それを読んでもらえる文章にするのは難しいものですね…

そんな感想文の中でも2番目に書くのが難しかったのは、私が今年読んだ中でベストに選ぶ川上未映子さんの『夏物語』です。1番目のは長文すぎて未だ公開できないのですが、『夏物語』もその文章のうまさや凄さを自分の文章で伝えられる気がしなかったものの(今も)、年末ということもあり思い切って書き上げてみました。読んでいただけると嬉しいです。


夏物語

「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」

大阪で生まれ育ち東京に暮らす一市民である夏子がこう決意するまでの物語。しいて総括するならこう書きたいのは、ここに夏子と読者の関係が結実すると思うからです

この言葉が夏子の口から出るシーンでは、間違いかもしれないことが何かは語られていても、忘れるということに関しては何も語られていません
だから話し相手である善百合子にしてみれば「忘れるって何のこと?」と思って当然で「間違うこと」にしか理解のフォーカスが当たらない台詞です。文法的にも「間違うことを選ぼうと思います」の方に力点がありそうな文ですし。

それ反して、間違うことよりも忘れないでいようとすることの方が夏子にとって大切なのだ、ということに気づけるのが夏子の人生をここまで読んできた読者です。
そして夏子が忘れないといっているのが何かといえば、この小説で語られるすべてのことだ、と直観的に理解できるのも読者です。
夏子が子どもを産むということについて考えてきたこと含めて、この言葉に夏子の物語のすべてが繋がるのです。

ただ、それだけでは済まないのがこの物語、というか、川上さんのすごいところだと思わされました。
そもそも感情についても感覚についても文章の描写が本当に素晴らしいですし、心動かされるようになっているプロットやテーマ性などの醍醐味も詰まっていて小説としての強さもあります。

たとえば第一部の山場といえる、姪の緑子と母親が生卵を潰し合うという滑稽なほど壮絶なシーン
その始まりの部分で「ぶわり」と緑子の涙が溢れるという表現は、夏子が見たままを描いているだけですが、この文だからこそ「ぶわり」感がリアルに伝わってくる絶妙な書き方ですし夏子の傍観者的立ち位置や蛍光灯の白々しさは、続いて発せられる緑子や巻子の言葉や夏子の考えが文章としてシーンに馴染むように距離感と温度感を保つ働きもしています。
「正しい捨てかた」の分からない賞味期限切れの卵を潰して中身を垂れ流す行為は、卵子を排泄し続ける女性たちによるものであり、溢れ出てきた悲しみの表現と第二部の通底テーマをメタファーの面でも支えています。

でもそんな表現・構造よりも川上さんの紡いだ文章が本当にすごいと思ったのは、相反しそうな世界の断片を夏子という一人の視点が繋げていることでした。
若松英輔さんはフロイトとユングについて以下のように書いています。

近代は、フロイトとユングの登場によって無意識を再発見した。・・・深層心理学が一つの「科学」、すなわち学問として確立するためには、関心の領域を五感的感覚で認識可能な世界に限定しなくてはならない・・・フロイトはそう考えた。フロイトは非宗教的、科学的に学問体系として自説を確立しようとする。
だが、ユングは別な道を行く。・・・本来は逆ではないのか。人はもともと大きな神秘のなかに生きていて、その断片を降り落ちる流れ星のように経験しているにすぎないのではないか。学問とは神秘なる現象からの放射を受け取り、それを言葉に定着させることではないのか、と訴える。現代の宗教が忘却した霊性と叡知の伝統をすくいあげるのが心理学者の使命だと考えたのである。
溝は容易に埋まらない。二人は訣別する。

『小林秀雄 美しい花』

川上さんの文章には、このフロイト的な個別的感覚・認識と、ユング的な超越的メッセージの両方を日常の描写の中で掬いとる捕縛力が備わっていると感じます。
もちろん単に併記してあるのではなく、両方を途切れることなく行き来しているのが作家としての持ち味でもありすごい点だと思います。また、「掬いとる」と書いたのは、把握とは違い、掬いとられなかった方にも重きがあるからなのですが、掬い取ったものも人生の幸福と不幸の結晶・象徴となっているのが深いというかすごいというか。ノー〇ル文学賞発表前の下馬評に川上さんの名が挙がるのも肯けます。

先ほど「それだけでは済まない」と書いたのは、「忘れるよりも」の台詞の後に夏子ではない人生を掬うというか、百合子の方もなかったことにはしないぞというような気迫ある文章が続くからでもあります。夏子が決意を善百合子に伝えた後、その決意に匹敵するくらい...いえ、夏子が直後に必死で泣き崩れるのを堪えたように、決意くらいでは太刀打ちできないほど絶望的な百合子の不幸の言葉が現れて、号泣の1ページが始まるのです。

実は、『夏物語』は紙の本も手元にあるのですが、そちらを開かずAudibleで何日もかけて聴きました。音声のいいところは、目をつむれるので没入できるところですが、百合子のこの台詞(ここでは書きません)を聴いた時は没入を通り越し、パックリと現れた夏子と百合子を隔てる裂け目に飲み込まれました。この1ページの間は這い上がることができませんでした。

夏子が嗚咽を堪えるところの朗読は、自分も全身に力を込めないと聴いていられませんでした。
百合子の歩み寄りと微笑みを読み上げられると、荒涼さと優しさがないまぜになった不思議な広がりにつつまれました。
百合子へ届けることのできない夏子の思いが語られるのは、檻に閉じ込められた無辜の動物が暴れているのを眼の前にしているようで聴いていて胸が詰まりました。

はあ...すごいのですが、すごすぎて伝えられる気がしないで書いてはいるのですが…どうしてもあと一つ、夏子と百合子の最後について。

二人のシーンは次の台詞で締めくくられます。この台詞を味わうために『夏物語』を一から読んで来てもらいたいですし、私と同じようにAudibleな人にもこの最後に刻まれた言葉はぜひ音声でなく縦書きの本で読んでもらいたいです。

「おかしなことだね」
「うん」
「おかしなことだね」

この二人(深読みすれば三者)の台詞はもう二人を離れていて、その代わり文字が涙の結晶のように本に埋め込まれているのです…
その文字の周囲には、二人を見守るかのように、余白の美しい調和があるのです…

『夏物語』は夏子の38年の物語であり、人生で青春を過ぎて(帯の色が日本的な朱色なのも朱夏をかけてそうです)新しい生を産む女性が内面に抱える複雑な感情や変化を丁寧に描き出しています。同時に、関わる人々とのやり取りを通じて、世の中の様々な価値観や生も描いていきます。
出版されたのは2017年で、話の舞台もその前年。私の周りですら何人かいるくらい人工授精が広く行われるようになった現代の小説として時代性もあります。
そしてここまで書いてきたような、知的なバランス感覚に優れ、いちいち味わい深く文章が何よりも読書の喜びをあたえてくれる本でした。いろいろと常軌を逸しているとしか思えないことが続く世の中、これだけの小説を書き上げる書き手が自分と同じ時代にいてくれることには尊さしかありません🎀
またこのような本に出会えることがあるかと思うと来年も楽しみになります。ひとまずは『夏物語』とテーマが似ていそうな『乳と卵』が未読なので、こちらを読んでみたいと思う2024年の年末です。


(追記 『乳と卵』は『夏物語』第一部の原型になったもの、というか『乳と卵』に加筆したのが第一部のようです。
また年始にも少し読み直して思ったのは文体というかリズムも素晴らしいですね。Audibleだとリズムは意識してませんでした。逆に、大阪弁の台詞は本よりもAudibleの方がインパクトありました)

『夏物語』は『乳と卵』の登場人物たちと設定をもとに、過去の詳細&8年後現在をあらたに書き下ろした長編です、なので、どちらを先を読んだらええか、というと『夏物語』であれば世界がまるっと入ってることになると思います

川上さんのXから

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