読書『アントンが飛ばした鳩』
傍題が『ホロコーストをめぐる30の物語』となっているとおり、ポーランド生まれのユダヤ人である著者がゲットーや強制収容所を生き延びた1943年から45年を中心とした30篇の短編集。
同じく生き延びた人々に「どうしてそんなことまで覚えているんだ?!」と言われるくらい、当時のことをしっかり記憶していた著者による文章は、まさに知られざる事実・語られざる事件をありありと伝えます。
ここまで細かい戦中の実話は今までなかったというくらいの描写力で、それだけでも新鮮でしたが、飾り気のない文体で、そこに生きていた人たちの人間性を誠実に伝えようとしていることが分かる語りが、人生の妙を浮かび上がらせ、味わい深いエピソードとして読めました。
原題は直訳すれば『鳩飼いアントン』で、30篇の1つのタイトルです。著者が自らこれを書名にしたとは思えないのですが、アントンのエピソードは確かに象徴的です。
著者が住んでいた町で鳩の群れを飼育していたアントンは、後にその妻が「アントンとの暮らしはすごく厳しかった」「彼はただハトだけを愛していた。それだけが生きがいだったの」「酔っぱらって怒ったときが一番厄介だったわ。私を侮辱して、時には殴ることもあったけど、私はやり返した。彼はすごい怠けもので、自分の面倒もいっさい見られなかった」と語るような男でした。
鳩を愛するアントンはナチスに鳩を押収されそうになった時、すべての鳩を自ら殺し、そのことでゲシュタポに連行されていきました。
著者がアントンと再会したのは、強制収容所でした。アントンは、ユダヤ人を取り締まるカポ(*)となり、「些細な理由で人をためらわず殺すし、気に入ったやつは迷わず助けた」といわれる横暴な権力者として振舞っていました。それで恨みを買っていたアントンは、別の収容所へ移送される列車の中で仲間のリンチを受けて殴死する、という最期を迎えることになります。
生まれ育った町から強制連行されてきた著者は、そんなアントンに「なぜこんなに親切にされるのか」と訝しんでしまうくらいの好待遇を受けます(といっても、飢えや寒さ、病気や労働で死んでしまいそうなくらい厳しい環境)。移送のための別れ際には命をつなぐ水を持たせてくれます。「やつらにやられるんじゃないぞ」と言いながら。
著者が記憶し、感じた戸惑いもそのままに書かれたアントンの言動には、単なる横柄な男だけではなかったことが感じられます。
*カポ
強制収容所で、同じ囚人でありながらナチスの下請け的に囚人の監視役を担った。特権的立場を利用し、衣食住に恵まれた。収容所撤収の際は他の囚人と同様にナチスに抹殺されたり、生き延びても戦後裁判で極刑に処されたりした。
全体として、この本の多くの物語が死に溢れていて、原著の出版当初におさめられていた21篇だけだと余計に暗いイメージが残ったと思います。否応なく連れ去られる人々、道端に死体が転がるのが突然当たり前になった生活、どこかで人を殺しているライフルの鳴り響く音、逃げるように懇願する母親の声、痩せ細り消え入る声で死んでいく収容者たち。
それに対して、増補版で追加された9篇は、少年時代のこと、戦後のことが中心で、より各話の中心人物のエピソードが際立ちます。そこにはアントンの話と同様に、人間性の陰影があります。悲劇的ですが戦争の悲惨さを伝えようとする書き方ではありません。事実と人間に関心があり、それを誠実に書き残そうと願う人でないと書けない文学です。
著者は前書きで以下のように書いています。苦しさと耐え抜き生きること。しかし、おそらくこれは増補前のものだと思われます。そこに新たな9篇が加えられたことで、より著者の他者に対する思い、事実としてあったことを伝えることに価値があるという哲学が全体感をもって表現され、当時の人々が生きた世界がより奥行きと広がりをもって伝わってくるようになったのだと思います。それこそがこの本を読ませる大本の魅力なのだと感じます。
なお追加された9篇は、原著初版の目次と比較して以下のものと判断しました。
・サーカスが町にやってくる
・音楽の先生
・デビュー
・万年筆
・インゲ
・ついにアメリカへ
・昔の友だち
・少年時代の足跡をたどって
・雨の夜に
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