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読書『いつかたこぶねになる日』

『いつかたこぶねになる日』 小津夜景

俳人の小津さんによる31編からなるエッセイ。各篇で小津さんの訳とともに漢詩が紹介されています。
素粒社からの初刊行時は『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』となっていましたが、読者を漢詩の魅力へいざなうように書いたものではなく、自身のメモ書きでしかないとして「漢詩の手帖」と付けたそうです。

文庫版の解説を書いた永井玲さんは、本書を「一体の生命体」と表現しています。これはいい評で、たしかに軟体生物の外套膜のような透明な膜にくるまれた、脈動する小津さんの人生の営みを感じます。

私にとっては小津さんの文章は料理のようで、各編に「漢詩『〇〇』~○◯添え~」と付けたくなります。それぞれの漢詩の訳の鮮やかさに加えて、詩人やモチーフへ連なる小津さんのエピソードが言葉の綾となっているからです。
さらに、そこには先人の人生、歴史の姿が背景としてあり、これは料理を盛る器といいたくなります。

たとえば、書名となった第1編「いつかたこぶねになる日」なら、「原采蘋『発郷』~海からの贈物を沿えて~」というところでしょうか。
(この編は素粒社さんのnoteで読むことができます)

『海からの贈物』はアン・モロー・リンドバーグのエッセイで、「たこぶね」はそのうちの1編であり、メスが貝殻をまとうタコの種の名前です。殻の中で育った子ダコたちが巣立つと、母タコは殻を脱ぎ捨てさるという生態があるそうです。

女性ながら男装・帯刀で学問の道を生きた原采蘋(はらさいひん)は、福岡の秋月藩の儒学者・原古処(はらこしょ)の家に生まれました。
古処やその師・亀井南冥(かめいなんめい)は、各藩の中でも一等の学者で多くの門弟も集まるほどでしたが、いずれも幕府の禁制により不遇の身となります。
家名を絶えさせてはいけないと、古処は采蘋に期待をかけ九州で研鑽を積ませて後、江戸に発つ采蘋へ「名を上げるまでは故郷に戻ってはならない」と訓示を授けます。
その旅立ちの際に詠んだのが『発郷』です。

小津さんの訳は、漢詩を今の言葉にするだけでなく、ありがちな風に格調高く読んでしまうと損なわれてしまう、それぞれの詩にある持ち味をうまくいかしています。
『発郷』の以下の部分とその訳からは、父母への素直な愛情と、若い生命力をよく感じることができます。
小津さんが幼い頃から母親に「必ず国外へ送り出すから」と言われ続け、実際にそうなった時の「痛み」を経験しただけに、余計に若い采蘋のまぶしさが伝わる訳になっているのかもしれません。

朝献后天寿 祖先に供物をささげて長寿を祈る
使我二尊昌 父と母が元気でありますように
行人亦安穩 旅する私も無事でありますように
一飲騎鯨觴 ぐっと干す 鯨にまたがって盃を
一飲騎鯨觴 ぐっと干す 鯨にまたがって盃を
此行気色揚 この旅への気魂がみなぎってきた

『発郷』(小津夜景訳)一部引用

小津さんの文章には不明瞭なところがありません。解説で永井さんが「分からなさ」をそのまま書かれているのを読むと、対照的により分かります。
本当に詩のよさを知っているのと同時に、それを的確に表現できるすごい人だなと思います。料理の極上の美味を知った上で、明晰に調理をするシェフさながらです。
それでいて冷ややかな重さがないのは、本書のあちこちで顔を出す、きらめく海面へ浮かびあがるような自由への希求のためでしょうか。
玲瓏さとまぶしさ、それが小津さんの言葉を包んでいる透明さなのです。そこに仄かに憂いが注すとほんのり乳濁するのもまた魅力的です。

涵養の果てに役を捨て去って、ふたたび身ひとつで海へと泳ぎだす「たこぶね」。こうした貝からあたえられるイメージを書き連ねることによって、女性が自由に生きるためにはなにが必要なのか、その暮らし方をアンは見つめ直すのだ。
時の年輪がつくりあげた美しい殻を惜しげもなく脱ぎ捨て、人生の後半をたこぶねのように、さらなる未知の世界へ泳ぎだしたいという願い。一介のタコとして生き直したいという願い。この美しい願いが、しかし叶えるにはほんの少しむずかしいことをいまのわたしはよく知っている。

ところで、ここからまったくの余談になるのだけれど、原采蘋は小津さんにとって取り上げないといけない日本女性だったのだと推察します(頼山陽の弟子・江馬細香、梁川星巌の妻・梁川紅蘭、そして采蘋は三大女流漢詩人と称されます)。
采蘋の本名は「みち」といい「猷」と書きます。これは亀井南冥が学長を務めた福岡藩学問所である「甘棠館(かんとうかん)」と同時に設立された「修猷館(しゅうゆうかん)」の「猷」で、「修猷」は『尚書』の一節から取られた、名君が行った政を実践することを示す語です。甘棠館は原采蘋が生まれた年に焼失し、そのまま廃止となりました。甘棠館と修猷館は性格を異にしていたらしく、上級武士の子弟が集まる東の修猷館に対し、西の甘棠館は武門でも下級の家の出身者が集まり自由な気風があったそうです。その甘棠館が無くなり、残った者たちが修猷館に吸収されたことは、亀井南冥を失意の底に落としました。それを思うと、甘棠館で学び南冥の愛弟子だった古処が、自分の娘の名にライバル組織の字を使ったのは何故だったのか・・・私は「本当の猷を修める子となるように」という思いを古処が込めたのでないかと想像したりします。
亀井家と原家の家族ぐるみの付き合いはその孫の代までも続き、南冥の孫娘である亀井少琹(しょうきん)は、采蘋と並び称される才女となりました。
翻って現代、修猷館が前身となった修猷館高校は福岡きっての進学校となっていますが、この高校の話題を耳にする時、幕末に学を得て開明的に世の中を見ていた、それだけ世の不条理に抗う生き方をすることになった200年前の人々の影が頭をよぎります。


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