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ピエール・アド「精神的=霊的な修練」(翻訳)

 以下は、Pierre Hadot, « Exercices spirituels », Exercices spirituels et philosophie antique, Nouvelle édition revue et augmentée, Éditions Albin Michel, « L’Évolution de l’Humanité », 2002, p. 19-74の試訳です。ピエール・アド(1922-2010)はコレージュ・ド・フランスの教授で、古代ギリシア・ローマ哲学を専門としています。本論文は、フーコーが『快楽の使用』で参照したことでも知られ、「生存の技法」と呼ばれる晩年のフーコーの鍵概念にとって着想元の一つともなりました(とはいえ、アド自身は古代哲学についてのフーコーの理解には批判めいたことを述べて、釘をさしてもいます)。
 翻訳は第2節で終わっていますが、順次追加していきます。
 ※原文の註は番号を付けず、[ ]の内に入れています。noteでの可読性を考慮してカットした註も多くあります。以下に挙げる目次内のセクションの下位区分は原文になく、内容を考慮して設けたものです。



 昨日よりも上に飛翔すること。短くとも、それが密度の高い瞬間であるようにせよ。毎日、「精神的=霊的な修練」をおこなうこと──ひとりで、あるいは、同じく向上しようと望む誰かとともに。精神的=霊的な修練。変化を欠く持続から外に出てゆくこと。あなた自身の情念を、虚栄心をはぎ取り、あなたの名が話題に上がることへの欲望(慢性的な病のように、あなたをうずうずさせることもあろう)を棄て去ること。中傷から逃れること。哀れみと憎しみを棄て去ること。すべての自由な人間を愛すること。つねに過ぎ去りながら、永くとどまること〔S’éterniser en dépassant=束の間の生でありながら、永遠たらんとすること〕。
 以上のような自己への努力は必要不可欠であり、こうした熱望は正しいものである。多くの人間は、政治的な闘争に、社会革命の準備に勤しんでいる。革命を準備するために、みずからが革命の名に値する者たらんとする者は少ない。きわめて少ないのだ。

 最後の数行を脇に置けば、ここに挙げたテクストは、マルクス・アウレリウスのパスティッシュ〔文体模写〕であるように思われないだろうか。これはジョルジュ・フリードマンのテクストである。大いにありうることであるが、執筆するなかでフリードマンは、こうした類似に気づいていなかったのであろう。同じ著作の別の箇所で、「立ち返るべき場所」を探し求めるフリードマンは、現代の精神的=霊的な状況の要請と両立可能ないかなる伝統も(ユダヤ教の、キリスト教の、東洋の伝統のなかにも)存在しない、と結論づけるにいたっているのだ。しかしながら、奇妙なことにフリードマンは、ギリシア・ローマの古代哲学の伝統を取り上げていないのだが、初めに引用した数行は、いかなる点で、古代の伝統がフリードマン自身のうちにも、わたしたち一人ひとりのうちにも生き続けているかを、それと知らぬままに示しているのである。

精神的=霊的修練という語

 「精神的=霊的な修練」。この表現は、現代の読者をいくらか面食らわせるかもしれない。まず何よりも、「精神的=霊的」という語をこんにち用いること自体、好ましい印象を抱かせるものではなくなっている。しかし、この語をどうしても用いねばならない。というのも、別の形容詞、たとえば「心理的〔psychique〕」、「精神的=道徳的〔moral〕」、「倫理的〔éthique〕」、「知的〔intellectuel〕」といった言い方や、「思考の」、「魂の」といった文言も、わたしたちが記述しようとしている現実の全面をカバーするものではないからだ。もちろん、思考の修練という言い方は可能であろう。そうした修練において、思考はいわばみずからを素材とし[n. Épictète, Entretiens, III, 22, 20]、みずからを変えようとするのだから。けれども「思考」という語は、この修練において想像力や感性がきわめて重要な仕方で働くことを、じゅうぶん明確に示してくれるわけではない。同様の理由により、「知的な修練」という言い方に満足することもできない。問題の修練において、知的な側面(定義、分割、推論、読書、探究、修辞的な潤色)が大きな役割を持つことは事実であるけども。「倫理的な修練」は、たしかに魅力的な表現である。後でみるように、ここで問題となっている修練は情念の療法に大きく寄与するもので、生活態度に関与している。しかしながら、それではいささか限定的な視野を得ることになってしまうだろう。じつのところ、この修練は──ジョルジュ・フリードマンのテクストをつうじて瞥見したとおり──世界の見方〔世界についてのヴィジョン〕の変形を、人格の変容を引き起こす。「精神的=霊的」という表現によって首尾よく理解できるようになるのは、こうした修練が思考の活動であるのみならず、個人の心的現象全体の活動であるという点であり、この修練の真の次元がこうして明らかになる。修練によって個人は、客観的な精神=霊の生活へとみずからを引き上げる。つまり、〈全〉のパースペクティブのうちに身を置くようになるのだ(「つねに過ぎ去りながら、永くとどまること〔S’éterniser en dépassant〕」)。
 必要であれば、「精神的=霊的修練」という表現は甘んじて受け入れよう──読者諸賢はそう言うだろう。だが、ここで問われているのは、イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操〔Exercitia spiritualia〕」であろうか。ロヨラの瞑想とジョルジュ・フリードマンの構想(「変化を欠く持続から外に出てゆくこと。……つねに過ぎ去りながら、永くとどまること。」)────とのあいだには、いかなる関係があるのだろうか。わたしたちの答えは至極単純だ。すなわち、ロヨラの霊操は、ギリシア・ローマの伝統をキリスト教的に翻訳した、一つのヴァージョンにすぎない。本稿でわたしたちは、このギリシア・ローマの伝統の広がりを示すことになる。そもそも、概念としての、言葉としての「霊操」は、イグナチオ・デ・ロヨラよりもずっと前に、古代ラテン世界のキリスト教において確認されるものであり、それはギリシア世界のキリスト教におけるアスケーシス〔修徳〕に対応する。しかし、アスケーシスという概念についていうならば、これは禁欲主義としてではなく、精神的=霊的修練の実践として理解されねばならず、古典古代の哲学の伝統においてすでに存在していた。そういうわけで、精神的=霊的修練というこの概念の起源と意味を説明するためには、古典古代の哲学の伝統にまで遡って考える必要がある。ジョルジュ・フリードマンが明かしているように、この修練は現代の意識のうちにつねに息づいている。本研究が望むのは、古典古代のギリシア・ローマにおいて精神的=霊的修練が存在していたという事実を思い起こすことだけではない。この現象の射程と重要性の全体を正確に描き出し、そこから帰結することがらを示すことで、古代思想についての、そして哲学それ自体についての理解に資するものとしたいと考えている。

1.生きることを学ぶ

ストア派と生の様式

 精神的=霊的修練をめぐる現象をより観察しやすいのは、ヘレニズム期・ローマの哲学の伝統である。たとえばストア派は、修練を明確に規定している。ストア派にとって、哲学とはひとつの「修練」であった[Pseudo-Galien, Hist. phil., 5; Diogène Laërce, VI, 70-71]。ストア派の哲学者の目に映る哲学とは、抽象的な理論の教育ではなく[Sénèque, Epist., 20, 2]、ましてやテクストの注釈でもなかった[Épictète, I, 4, 14-18]。ストア派にとっての哲学とは、生きることの技法[Épictète, I, 15, 2 ; Plutarque, Quaest. conviv., I, 2, 613 B]、具体的な態度決然たる生の様式スタイルであり、それは生存の全体に関わるものであった。哲学的な行為は、認識の次元に位置をもつだけでなく、「自己」の次元、存在の次元にも位置をもつ。つまり、わたしたちを先へと進ませ、よりよい者たらしめる進歩こそが、哲学的な行為なのだ。それは、生の全体を動揺させる回心〔conversion〕であり、回心を経た者の存在を変化させる。この回心をつうじて人は、無自覚ゆえに眩まされ、心配の種にむしばまれて真正性を欠く生の段階から、真正たる生の段階へと移行する。そこで人は、自己の意識へと到達し、世界についての正確な見方を手に入れ、内的な平穏と自由とを獲得するのである。
 あらゆる哲学的な潮流・学派にとって、人間にとっての苦痛や無秩序、無自覚の主要な原因は、情念である。たとえば、度を外れた欲望や、肥大化した恐れなど。心配事に心を占められて、ひとは真の仕方で生きることができなくなってしまう。そこで哲学は、まず第一に、情念の療法として現れる[Cicéron, Tuscul., III, 6](「あなた自身の情念をはぎ取ること」、とジョルジュ・フリードマンは書いていた)。いずれの潮流・学派も、固有の治療法を有しているが、この療法は、個人の見方、存在の仕方の深い変化と結びついている。精神的=霊的修練は、まさに、こうした変化を実現することを目的としているのだ。
 初めに、ストア派の哲学者を例として取り上げよう。彼らにとって、人間における不幸のすべては、次のことに起因している。すなわち、手に入るかどうかも怪しいのに、善=財を手に入れようとし、獲得してもいずれ失ってしまうリスクを伴うのにそれを守ろうとすること、そして、避けることができない悪を避けようとすることである。それゆえ哲学は、人に教育を施そうとする。手に入れることができる善=財のみを得ようとし、避けることができる悪だけを避けようとする、そうした人間へと陶冶するのである。つねに手に入れることができるこうした善=財、つねに避けることができるこうした悪、これらは、それ自体としては、ただ人間の自由に依存するものである。それゆえ、そうした善や悪とは、心の善であり、心の悪である。それらだけが、わたしたちに依存するものであり、ほかのすべては、わたしたちにどうにかできるものではない。わたしたちに因らないこうしたすべては、それゆえ、原因と結果の必然的な連鎖に対応するものであるから、わたしたちの自由を逃れている。それらは、わたしたちにとって区別をもたない〔わたしたちとは無関係なものである〕から、したがって、そこにわたしたちが区別を差しはさんではいけず、運命によって望まれたものとして丸ごと受け入れなければならない。それが自然の領域である。それゆえ、そこには、物事についての習慣的な見方の大転換が存している。現実についての「人間的」なヴィジョン、つまり物事の価値が情念に依存しているヴィジョンから、「自然な」ヴィジョンへと移行するのである。そこで一つひとつの出来事は、普遍的な自然をとらえるパースペクティブのうちに置きなおされることになる。
 こうしたヴィジョンの変更は困難なものだ。精神的=霊的修練が介入するのは、まさにそうしたヴィジョンの変化に対してなのであり、ひとは内的な変化をどうしても遂げねばならず、修練をつうじてそれを少しずつ実現しようとする。精神的=霊的修練を体系化しうる系統だった特徴を、わたしたちは一切有していない。ただし、一連の内的な活動における特定の局面をほのめかす文言は、ヘレニズム・ローマの時代の書物に頻繁にみられる。以上の事実からは、次のような結論を引き出さねばならないだろう。つまり、こうした修練は当時よく知られたもので、それをほのめかす言葉があれば充分だった。なぜなら、精神的=霊的修練はさまざまな哲学の潮流・学派の日常生活の一部となっていたからであり、それゆえ、伝統的な口頭の教育の一部となっていたからである。
 とはいえ、アレクサンドリアのフィロンのおかげで、わたしたちのもとには二つの修練のリストが存在している。リストは相互に丸ごと重複しているわけではないから、ストア派ならびにプラトン主義の影響下にある哲学的な療法について、充分に広範な展望を提供してくれる、という利点がある。一つのリストは[Philon, Quis rerum div. heres, § 253]は以下のように列挙する──探究(ゼテシス)、徹底的な〔良心の〕究明(スケプシス)、読書、聴取(アクロアシス)、注意(プロソケー)、自制(エンクラテイア)、無関係な物事への無関心。もう一つのリストは次のように挙げる──読書、瞑想(メレタイ)、情念の世話、よいことの想起、自制(エンクラテイア)、義務の遂行。これらのリストのおかげで、ストア派の精神的=霊的修練を簡潔に記述して、以下のようなグループを順に取り上げて論及することが可能となる。第一に、注意。次いで、瞑想と、「よき事柄の想起」。それから、より知的な修練、すなわち、読書聴取探究、徹底的な究明自省〕。そして最後に、より活動的な修練、すなわち義務の遂行と、無関係な物事への無関心

注意──自己を見張る

 注意(プロソケー)は、ストア派において根本的な精神的=霊的態度である[Épictète, IV, 12, 1-21]。注意とは、絶え間ない警戒であり、精神の倦むことなき現前であり、つねに見張られた自己意識であり、精神の不断の緊張である。注意によって哲学者は、みずからが各瞬間に為すこと十全に知り、望むのである。こうした精神の警戒によって、根本的な生の規則、すなわち、わたしたち次第である事柄と、わたしたちにはどうしようもない事柄との間の区別が、つねに「手中に・手元に」ある(プロケイロン)。ストア派にとって(またエピクロス派にとっても)重要だったのは、簡潔さと明晰さを突き詰められ、数語で定式化できる根本原理を信奉者に与えることである。というのも、簡潔で明晰な言葉へと定式化されることによって、原理は精神へ容易に現前しつづけることができ、ほとんど反射的な確実さと恒常性とともに適用されるのだから。「寝ている間も、起床の際にも、また食事のときや飲酒のとき、それに他人と会話をするときにも、これらの原理を手放すことがないようにせよ」[Épictète, IV, 12, 7 ; Marc Aurèle, Pensée, III, 13]。これと同様の精神の警戒によって、根本的な規則を生の特殊な状況に適用することができ、為すべきことを「時機を得て」為すことができるようになる[Épictète, IV, 12, 15-18]。こうした警戒は、現在の瞬間への集中としても定義しうる──「あらゆる事柄、あらゆる時においてあなた次第であるのは、いま起こっていることに関して敬虔さをもって歓ぶこと、そして、いま自分の周りにいる人々に対して正義にかなった振る舞いをすること、いま考えていることに整然と注意を注ぎ、思考のうちで納得できないことは何も受け入れようとはしないことである」[Marc Aurèle, Pensée, VII, 54]。現在の瞬間に向けられるこうした注意は、いわば、精神的=霊的な修練の神髄である。注意は、過去や未来──わたしたちにはどうしようもないもの[Marc Aurèle, Pensée, II, 14 ; IV, 26, 5 ; XII, 26]──によってつねに引き起こされる情念から、人を解放する。注意によって警戒は容易なものとなり、この一瞬間にすぎない現在、だがつねに支配可能で、つねに耐えることのできるこの現在に集中することができるようになる[Marc Aurèle, Pensée, III, 10 ; II, 14 ; VII, 36]。最終的に、注意によってわたしたちの意識は宇宙的な意識へと開かれる。その過程でわたしたちは、一つひとつの瞬間に含まれる無限の価値に注意深くなるとともに、宇宙=コスモスの普遍的な法則をとらえるパースペクティブのもとで、生存の各瞬間を受けいれるようになる。
 注意(プロソケー)によって人は、出来事にも、とつぜん提起された問いにも即座に応答することができる[Épictète, II, 16, 2-3 et III, 8, 1-5 ]。そのため、根本原理がつねに「手中に・手元に」なければならない。生をめぐるさまざまな状況に思考をめぐらせて生の規則(カノン)を適用することによって、その規則を身に沁み込ませることが必要なのだ。ちょうど、文法や計算の規則を特定のケースに当てはまることで、練習=修練をつうじて規則を自分のものにしていくのと同じようにである。しかし、ここで生じているのは、たんに知を獲得することではない。人格の変容こそが問われているのである。想像力と感情は、思考の修練に結びつけられなければならない。降霊術めいた〔psychagogique=?〕修辞学のあらゆる手段も、あらゆる潤色の方法も、ここで動員される必要がある。まったく生き生きと、きわめて具体的な仕方で生の規則を自分自身にたいして明確化しなくてはならず、人生のなかで起こるさまざまな出来事を、根本的な規則の光に照らして「目前に思い浮かべる」必要がある[Marc Aurèle, Pensée, VII, 58]。これこそが、生の規則を記憶にとどめ(ムネメー)、瞑想する(メレテー)修練にほかならない。

瞑想──前もって思い浮かべること

 こうした瞑想の修練によって、予期せぬ状況、ひょっとすると深刻な状況が突然生じる時にそなえて心しておくことが可能となる。人生のさまざまな困難、すなわち貧しさや苦痛、死を前もって思い浮かべる(それが悪しき事柄を前もって思い浮かべることpraemeditatio malorumであろう)。そして、そうした困難を正面から見据えつつ、それらはわたしたちにどうしようもない事柄なのだから悪ではないのだと思い起こす。それから、際立つ格率を記憶にとどめる。格率は、時が来たときに、〈自然〉の流れの一部にほかならない一連の出来事を受けいれるよう、わたしたちを助けてくれる。こうして、格率や警句が「手中に・手元に」あるようになる。困難な状況にあって自分自身にたいして語るのは、説得を旨とした定式や議論(epilogismoi)であり、それは、恐れや怒り、悲しみの運動を停止させることを目的とするものなのだ。
 朝には、昼のうちにすべきことを前もって検討しておき、行為を導き動機づけるさまざまな原理を前もって見据えておく[Galien, De cognosc. cur. animi morbis, I, 5, 24]。夜には、再び自省をおこない、どんな失敗や進歩を為したかを理解するようにする。そして、夢までもが検討の対象になる。

知的な実践──読書と聴取

 ここに見られるように、瞑想の修練は、自身の内なる言説を支配できるように努力し、内心の言葉を一貫性あるものとすること、単純で普遍的な原理に基づいて、内心で語られる言葉を秩序づけることをめざすものである。そしてこの普遍的な原理とは、自分次第であるものと、自分の手には余るものとのあいだの区別にほかならない。進歩することを望む者は、自分自身との対話、あるいは他人との対話によって、さらにはエクリチュールによって、「秩序・順序にしたがって思考を導く」こと[『方法序説』II]、そして、世界について抱いている表象と内面の状況の、だがそれだけでなく、外的な振る舞いの、全面的な変容を達成することをめざす。こうした方法は、言葉の治療的な力をめぐって、大きな知見を明かしてくれている。
 以上のような瞑想と記憶化の修練は、絶やされぬよう、養われる必要がある。まさにこの点においてわたしたちは、フィロンが列挙していた、厳密な意味でより知的な修練、すなわち、読書、聴取、探究、徹底的な内省・検討を再び見出す。瞑想は、詩人や哲学者の警句、あるいは箴言を読むことによって、充分に単純な仕方で滋養を与えられる。しかし読書は、厳密な意味で、哲学的なテクストを説明したり、潮流・学派の師によって書かれた著作を解説することでもある。そこで読むことは、教育者によって施される哲学的教育の枠組みのなかでなされ、聴かれることになるのだ。こうした教育のおかげで、根本的な規則を維持しそれを正当化する思弁的な体系や、自然学や論理学の探究のすべて──それを要約するのが根本的な規則だ──を正確に研究することができるようになる。とすれば、「探究」と「徹底的な究明〔自省〕」は、こうした教育を実際に活用することにほかならない。たとえば、「自然な」パースペクティブのもとで事物や出来事を定義することそうした事物や出来事を宇宙的な〈全〉のうちに位置づけられるとおりに見ることになじんでゆく、といったように。あるいはまた、事物や出来事を分割してさまざまな要素へと還元し、一つひとつの要素を認識してゆくのである。

習慣

 最後にくるのは、習慣をつくることに向けられた実践的な修練である。そのうちのいくつかの実践は、きわめて「内的・内面的」であり、先ほど取り上げた思考の修練とひじょうに近しいところがある。たとえば、無関係な物事への無関心とは、根本的な生の規則の適用にほかならない。また他の修練は、実践的な振る舞いを前提する。「あなた自身の情念を、虚栄心をはぎ取り、あなたの名が話題に上がることへの欲望を棄て去ること。中傷から逃れること。哀れみと憎しみを棄て去ること。すべての自由な人間を愛すること。」プルタルコスにおいては、こうした修練に関わるきわめて多くの論攷がみられる。たとえば、『怒りの抑制について』、『魂の平静について』、『兄弟愛について』、『子供に対する愛について』、『饒舌について』、『好奇心・余計な世話焼きについて』、『富への欲望について』、『はにかみについて』、『妬みと憎しみについて』。セネカもまた、同じような類の著作を書いている──『怒りについて』、『善行について』、『魂の平静について』、『余暇について』。この種の修練においてつねに勧められるべきは、以下のようなきわめて単純な原理である。すなわち、安定し堅固な習慣を少しずつ獲得していくために、もっとも容易な事柄において修練を始めること。
 したがってストア派にとって、哲学するとは、「生きる」ための修練をすること、自覚と自由とをもって生きる修練をおこなうことである。自覚をもって、というのは、個体性の限界を超えることにより、みずからが理性によって活気づけられた宇宙の一部であることを認めることをめざすからだ。自由をもって、というのは、わたしたちにはどうしようもないもの、わたしたちから逃れているものを望まないようにし、わたしたち次第であること──理性に合致した正しい行為──にのみ専心することをめざすからである。

治療法としての哲学──エピクロス派

 哲学とは、ストア派がそうであるように、魂の警戒を、活力を、緊張を要求するものであり、本質的に精神的=霊的な修練に存しているということが了解されるだろう。しかし、一般的には快楽の哲学として知られるエピクロス派が、精神的=霊的な修練にほかならない簡潔な実践において、ストア派と同じほどの大きな位置を占めているという事実には、少なからず驚かれることだろう。ストア派哲学者にとっても、エピクロスにとっても、哲学とは一種の治療法であった──「われわれの唯一の仕事とは、われわれの治癒である」[Gnomologium Vaticanum, § 64]。しかしここでの治癒とは、魂を、生をめぐる心配事から、生きることの単純な悦びへと連れ戻すことにある。人間の不幸は、次のような事実に起因する。すなわち、恐れる必要のない事柄を恐れること、けっして望む必要がなく、どうしようもない事柄であるのにそれを望んでしまうということ。こうして人間の生は、根拠のない恐れや満たされない欲望がもたらす動揺のなかで憔悴してしまう。それゆえ、ただ一つの真の快楽、存在することの快楽がそこには欠けてしまうのである。そういうわけでエピクロスの自然学は、神々が世界の歩みになんら作用を介在させはしないこと、死は全面的な解体である以上、生の一部ではないことを示すことによって、ひとを恐れから解放しようとする[Ratae Sententiae, § 11]。エピクロスの倫理学は、自然かつ必要な欲望と、自然だが必要ではない欲望、自然でも必要でもない欲望を区別することによって、飽くことを知らぬ欲望からひとを解放しようとする。第一の欲望の満足、第三の欲望の断念、またもしかすると第二の欲望の断念にあたっては、動揺の不在を保証し、生きているという幸福を見えるようにするだけ充分である──「肉体の声はかくのごとくである、”空腹でない”、”渇きを感じない”、”寒さを感じない”。こうした状態を楽しみ、そうした愉しみへの希望に歓びを感じる者は、幸福においてゼウスと劣るところがない」[Gnom. Vat., § 33]。そこから帰結する、ほとんど予期せぬ感謝の感情は、事物にたいするエピクロス的な敬虔と呼びうるものを照らし出してくれる──「必要な物へ容易に手が届くようにし、得がたいものを不必要にする、慈悲ぶかき〈自然〉に感謝がなされんことを」[Fragm. 469]。
 それゆえ、魂の治癒に至るためには、精神的=霊的な修練が必要不可欠なものとなる。ストア派においてそうであるように、短いセンテンスを、あるいは要約的な文章をみずからのものとし、「昼も夜も」それに瞑想を加えることによって、根本的な教説を「手中に」することができるようになる。たとえば、よく知られたテトラファルマコンのように、四対の言葉がひとを治療する──「神は恐れるべき存在ではない。死は脅威ではない。善は獲得するのが容易である。悪は耐えるのが容易である。」多くのセンテンスを収録した集成は、瞑想の精神的=霊的修練への要請に応じるものである。しかし、ストア派においてそうであるように、潮流・学派の師たちの手による、教説を論ずる大部の論攷は、瞑想を養うこと、根本的な直観を魂により深く染み込ませることに充てられた修練でもある。それゆえ自然学の研究は、とりわけ重要な精神的=霊的修練の一つなのだ──「天上で起こる事柄についての知識は、アタラクシアと確かな安心感以外に目的をもたない。その他の物事の探究が、これと同じ目的しかもたないのと同様に」[Épître à Pythoclès, § 85]。自然の世界の観照、無限の想像力──エピクロスの自然学における重要な要素──がもたらすのは、物事の見方の全面的な変更であり(閉じた宇宙は無限に膨張している)、唯一の価値をもつ精神的=霊的な快である──「世界の壁は開かれて崩れ去る。わたしは宇宙の虚無のうちに、事物たちが生じるさまを見る。この光景を前にして、ある種の神的な快がわたしをとらえ、わたしはふるえに襲われる。それは、あなたの力(つまりエピクロスの力)によって自然がかくなる明証さをもって現れ、いたるところでそのヴェールを剥がされるからだ」[Lucrèce, De rerum natura, III, 16 et 30]。
 しかし、単純であれ複雑であれ、瞑想はエピクロス派において唯一の精神的=霊的修練ではない。魂を治療するためには、ストア派がそう望んだのとは異なって、緊張する〔se tendre〕修練を魂にさせるのではなくて、反対に、くつろぐ〔se détendre〕修練をさせてやらねばならない。悪しき事柄を受忍する準備をするためには、それを前もって思い浮かべるのではなく、反対に、わたしたちの思考を、苦痛に満ちた物事のヴィジョンから切り離し、わたしたちのまなざしをさまざまな喜びへと向けさせねばならない。過去の喜びの記憶を生きなおさせねばならず、現在の喜びがどれほど大きく心地よいものであるかを認識することによって、その喜びを楽しまねばならない。そこには、はっきりと定められた精神的=霊的修練がある。それは、毎瞬間おのれの精神的な自由を守ることができる体制を保ちつづける、ストア派のごとき絶えざる警戒ではない。くつろぎと静穏への断固たる選択だがつねに新たになされつづける選択であり自然と生命への深い感謝の念である。というのも、自然と生命を見出すすべを知るならば、それらはわたしたちに快と歓びを絶えず与えてくれるからである。以上と同じように、現在の瞬間のうちに生きようとする精神的=霊的修練もまた、ストア派とエピクロス派とにおいてひじょうに異なる様相を見せている。ストア派において、現在の瞬間の修練とは精神の緊張であり、道徳的な意識の絶えざる覚醒である。だが、エピクロス派においてそれは、先と同様、くつろぎと静穏へのいざないなのである。つまり、わたしたちを未来のほうへ引き裂く心配・気遣い〔souci〕というものは生きるという単純な事実がもつ比類のない価値を、わたしたちに見えなくしてしまうのだ。「ひとは一度かぎりしか生まれない。二度生まれることはゆるされていない。だから、永遠のために生きてはならない。あなた、明日の主ではない者よ、あなたは歓びを明日に繰り延べている。しかし生は、そうした延期のうちで憔悴してしまい、わたしたちの各人は心配・気遣いに苦しめられて死んでゆく」[Gnom. Vat., § 14]。以上の一節が述べるところは、まさにホラティウスの有名な詩句が告げる事柄にほかならない。「わたしたちが話すあいだにも、妬み深き時は逃げてゆく。今日という日を摘みとれ、明日を当てにすることなく」[Horace, Odes, I, 11, 7]。つまるところ、エピクロス派の哲学者たちにおいては、快こそが精神的=霊的修練なのだ。すなわち、自然の観照という知的快であり、過去と現在の快に想いをめぐらすことであり、友情の快である。エピクロス派の共同体においては、友情もまたそれ固有の精神的=霊的修練を有しており、それは喜びとくつろぎに満ちた雰囲気のなかで実現される。すなわち、過ちの公的な告白であり、良心の究明に結びついた、友愛に満ちた叱責である。しかし、ある意味では、わけても友情そのものがすぐれて精神的=霊的修練である。

2.対話することを学ぶ

ソクラテスという話者、ソクラテスの対話者

 精神的=霊的修練の実践はおそらく、太古の昔にまで遡るいくつかの伝統のうちに根を有している。しかしながら、その実践を西洋の意識のうちに浮上させたのは、ほかならぬソクラテス〔figure de Socrate:歴史的人物としてのソクラテスではなく、テクストに現れる形象・イメージとしてのソクラテス〕である。というのも、ソクラテスという形象は、道徳的な意識を覚醒させる、生ける呼び声であったし、いまもそうでありつづけているからだ。この呼び声がある種の対話形式をとって鳴り響いているという点は注目に値する。
 「ソクラテス的」な対話において、俎上に載せられる真の問いとは、語られる事柄ではなく、語っている者である。「ソクラテスの近くにまで寄って彼と対話するとき、初めはまったく違う事柄について話していたとしても、数多の種類の迂回における語りの糸によって、いやおうおく、自分自身を説明〔rendre raison de soi-meme〕しなければならなくなり、現在の自分の生き方にも、かつての生き方にも省察を加えてみなければならなくなるのだ。そうなると、そうした事柄すべてが彼によって徹底的に吟味されるまで、ソクラテスはあなたを逃してはくれないだろう。[……]良くない仕方で自分が行為している、あるいは行為していたことをひとに思い起こされるということに、なんら悪しき点は見られない。こうしたことから逃げない者が、残りの人生においてより賢慮な者となるというのは間違いない」[Platon, Lachès, 187e 6]。「ソクラテス的」な対話において、ソクラテスと対話する者は何も学ぶことはなく、ソクラテスもまた、何ごとかを教えようという意図をもってはいない。そのうえソクラテスは、彼の話を聴こうとする者に、彼が知っているただ一つのこと、すなわち、自分は何も知らないということを繰り返し語るばかりなのだ[Aristote, Sophist. Elenchi, 183b 8 ; Platon, Apolog. Socrat., 21d 5]。だがソクラテスは、まるでしつこいあぶのごとく対話する者たちを追い回し、かれらを疑問に投じる問い、かれら自身に注意を向けさせ、自分自身に配慮するよう強いる問いを向ける。「みなさん、知恵と力にかけては最大にして最も誉れある国、アテナイの国民でありながら、きみは、どうすればできるだけ多くの金が自分のものになるか、金のことを気にかけていて恥ずかしくはないのか。名声と名誉については気にかけながら、思慮(phronesis)と真実(aletheia)について、また魂(psyche)について、どのようにすればそれが最も優れたものとなるかを気にかけることもなければ、思案することもないとは」[Platon, Apolog. Socrat., 29d 5]。ソクラテスの使命は、彼と同じ時代を生きる者たちをして、おのれの良心を究明させ、おのれの内的な進歩に配慮を向けるよう導くことにある。「大多数の人が関心を寄せること、金儲けや財の管理〔家政〕や将軍職や民会の指導者やそれ以外の官職や同盟や政治結社などに、わたしは一切関心をはらいません。わたくしが身を全うしようとしたのはそうした道ではなくて、みなさんの一人ひとりに対して個別に、最大の善を施すこと、何を持っているかではなく自分は何者であるかにこそ配慮し、できるかぎり優れた思慮深い人間となるよう、みなさんを説得することに、わたしは努めてきたのです」[Platon, Apolog. Socrat., 36c 1]。プラトンの『饗宴』におけるアルキビアデスは、ソクラテスとの対話によって自分に及ぼされた効果を次のように語っている──「彼によってわたしは、こう告白するよう強いられた。自分はこんなにも欠点を有しているのに、わたしは自分自身をいつまでも配慮しようとしない、と[……]。一度ならずソクラテスは、わたしがいま生きているとおりに生きることはできないという、そんな状態にわたしを置いたのだった」[Platon, Banquet, 215c-216a]。
 それゆえ、ソクラテス的対話は、共同で営まれる精神的=霊的修練であるように思われる。すなわち、内的な精神的=霊的修練、言い換えれば良心の究明、自己への注意、要するに「汝自身を知れ」というあの寸言へとひとを導くものなのだ。「汝自身を知れ」というこの言葉の元来の意味は推察しがたいものであるとしても、いずれにせよ、あらゆる精神的=霊的修練の根拠をなす、自己から自己への関係へとこの寸言が促しているということは確かである。自己自身を知ること、それは、賢者ではない者として(つまりソフォスとしてではなく、知を愛するもの=哲学者〔philo-sophos〕として、知恵へと歩みを進める者として)の自己を知ることであり、あるいは、おのれの本質的な存在のうちに自己を知ること(つまり、わたしたちではないものを、わたしたち自身から区別すること)であるだろうし、あるいは、真の道徳的・精神的な状態のうちに自己を知ること(つまり良心を究明すること)でもあるだろう。
 他人との対話の師であるソクラテスは、プラトンやアリストファネスによって描かれた肖像においては、自己との対話の師としても現れている。つまり、精神的=霊的修練の実践における師としても現れているのである。ソクラテスは、尋常ならざる精神的な集中をおこなうことができる人物として呈示されている。アガトンの饗宴にソクラテスは遅れてやってくるのだが、というのも「道中で一人黙想に耽り、後にとり残された」からである[Platon, Banquet, 174d]。そしてアルキビアデスが語るところによれば、ポティダイヤの遠征の際、ソクラテスは立ったまま、昼夜を問わず「考え込んでいた=自分の思考のうちに集中していた」[Platon, Banquet, 220c-d]。同様に、『雲』においてアリストファネスは、ソクラテスの実践をほのめかす記述を残している──「沈思黙考し、深く集中しなさい。あらゆる手段を用いて、あちらこちらと自身を回転させてみなさい。行き詰まったときは、別のところに飛びうつりなさい……。考えをつねに自分自身に帰着させるのではなく、精神が風に乗って飛び立つようにしなさい。蜘蛛の糸に乗って動いてゆくコガネムシのように〔?〕」[Aristophane, Nuées, 700-706 ; 740-745 ; 761-763]。こうした自己自身との対話の実践は瞑想そのものであるが、これはソクラテスの弟子たちにおいて重んじられていたように思われる。哲学からいかなる利益を引き出したのか、アンティステネスは問われて次のように答える──「自分自身と会話することができる、という利益である」[Diogène Laërce, VI, 6]。他人との対話と自己との対話のあいだにあるこうした密接なつながりは、ある深い意味を有している。他人と真に出会うことのできる者のみが、自分自身と真正なる出会いをすることができるのであり、逆もまた然りなのだ対話が本当の意味で対話となるのは、他人への、そして自己への現前においてのみである。こうした観点からすれば、あらゆる精神的=霊的修練とは対話にほかならない──それが、自己と他者たちへの真正なる現前の修練であるかぎりにおいて。

プラトン的な対話

 「ソクラテス的」な対話と「プラトン的」な対話のあいだに明確な境界線を引くことは不可能だ。しかし、プラトン的な対話はつねに、霊感を得た「ソクラテス的」な対話であることに変わりはない。というのも、プラトン的な対話とは、知的な修練であるとともに、つまるところ「精神的=霊的」な修練だからである。プラトン的な対話のこうした特徴は、強調されてよい。
 プラトン的な対話は模範的な修練である。模範的というのは、それが実際の対話を速記した記録であるからではなく、理想的な対話を想像する文学的な創作だからである。プラトン的な対話が修練であるというのは、それが対話であるからにほかならない。ソクラテスにかんして、わたしたちはすでに、あらゆる精神的=霊的修練の対話的な性格を瞥見したところである。対話とは、問いかける者と応答する者とのあいだでつねに維持されつづける同意によって跡づけられた道からなる、思考の道程なのだ。プラトンは、自身の方法を論争術の方法に対置するなかで、この点を強調している。「ぼくときみのような、二人の友が話を交わしたい気分にあるときは、よりやさしく、より問答的な〔plus dialectique〕仕方でするといい。わたしにはこう思われるのだが、「より問答的な」というのは、なすべき応答をするという意味だけでなく、対話者が自己自身を知るのを認めることにのみ、本当の応答は根拠を与えられるという意味である」[Platon, Ménon, 75c-d]。それゆえ、対話者の役割はきわめて重要である。対話者の役割は、対話が理論的な教説の提示になることをふせぎ、具体的かつ実践的な修練となるよう仕向けることにある。というのも、まさしく、教説を提示することが重要なのではなくて、ある特定の、はっきりとした精神的な態度へと対話者を導くことが重要であるからだ。それはある種の戦いであり、友愛のもとになされる戦いではあるが、現実の戦いであることに変わりはない。指摘しておこう。それこそが、あらゆる精神的=霊的修練において起こることなのだ。自分自身の観点を、態度を、信条を変更しなければならず、しがたって、自分自身と対話し、つまり自分自身と戦わねばならないのである。そういうわけで、こうした展望において、プラトン的な対話の方法はある重要な利益を示している。「プラトン的な思考は、何と言われようが、ユートピアの純粋空間を飛翔してゆくために大地を去ることを何ら苦としない、そんな軽やかな鳩にはまるで似ていない。いかなる時にあっても鳩は、〔肉体の〕重苦しさを背負いながら、応答者の魂に立ち向かわねばなならない。一度一度の飛翔は、そのつど勝ち取られるべきものなのだ」[V. Goldschmidt, Les Dialogues de Platon, pp. 337-338]。こうした戦いに勝利するためには、真理を提示するだけでは充分でなく、真理を論証するだけでも充分ではない。よって、説得すること、降霊術〔psychagogie〕を用いること、魂を誘惑する技にうったえることが必要なのだ。さらにいえば、修辞学・弁論術を用いて、いわば遠くから、絶え間ない語りによって説得しようとするだけでなく、問答法〔dialectique〕がなくてはならない。問答法は、対話者への明白な同意を各瞬間に求める。それゆえ問答法は、遠回りの道を巧みに選択しなければならない。つまり、さらにいえば、分岐してゆくようにみえるが、じつは収束してゆき、対話者にかれ自身のポジションを発見させたり、あるいは予期せぬ結論へ至り着いたりするようかれを導く、一連の道を選択しなくてはならないのだ。回り道屈折終わりのない分岐余談細かすぎる話、これらはプラトンの対話編をよむ現代の読者をまごつかせるものであろうが、対話者を、そして古代の読者をして、ある特定の道程を走らせるよう仕向ける手練にほかならない。そうした一連の技法によって「ひとは少なからざる努力をもって、名、定義、視覚や感覚を互いにすり合わせ」、「さまざまな問題に長いあいだ親しみ」、光が沸き起こってくるまで「それらの問題とともに生きる」のだ[Platon, Lettre VII, 344 b et 341 c-d]。それゆえ、忍耐づよく修練をおこなわなければならない。「検討の尺度となるのは、良識ある人々にとっては人生全体なのだ」[Platon, République, 450b]。重要なことは、ある特定の問題の解決ではなく、解決にいたるために辿られるべき道である。この過程のなかで、対話者・弟子・読者はおのれの思考を形づくり、ただ思考自身によって真理を発見する資質を、次第に高めてゆくのである(「対話は、情報を与える〔informer〕よりもむしろ形を与える〔former〕ことを望む」)。「〔エレアからの客人:〕読むことについて学習している子供たちが、授業のなかで、これこれの単語の綴りを作る字母は何かとたずねられるとしよう。このとき子供は、たんにある特定の問題を解くことへと導かれているにすぎないのだろうか。それとも、考えられるすべての文法問題を解くことができるよう、資質を高めることがその勉強の目的である、というべきだろうか。―〔若いソクラテス:〕明らかに、考えられるすべての問題を解けるようになるのが目的です。―〔エレアからの客人:〕では、こんどは、「政治家」の正体を見つけようとしてちょうど現在われわれがおこなっている探索のばあいはどうなのであろうか。いったい、われわれに与えられている課題にとっては、ただ政治家だけのことを知るのが目的であろうか。それとも、すべてのありうる事柄を論じうる、よりよい対話者となる〔devenir meilleurs dialecticiens〕のが、その目的であろうか。―〔若いソクラテス:〕こんどもまた、すべてのありうる事柄を論じうる、よりよい対話者となるのが目的です」[Platon, Politique, 285 c-d〔水野有庸訳、『プラトン全集3』岩波書店、1976年、284-285頁を参照〕)。したがって、対話の主題は、対話のなかで用いられる方法よりも重要ではなく、問題の解決〔解決策〕は、問題の解決のために辿られる共通の道に比べるなら価値にとぼしい。一番最初に、一番早く解決策を見いだすことが重要なのではない。ある方法の実践のなかでもっとも効力ある、可能なふるまいを執り行うことが重要なのだ。「課題として提示されたものを探索しようとしている場合でも、当の目標をもっとも容易に、そしてもっとも素早く発見することは、第一の目的ではなく、二次的な仕事にすぎない。逆に、わたしたちが信ずるところの理性が命じているように、格別に重要なものとして、第一義的なものとしてわれわれが尊重すべきであるのは、ものの種類によって分割していくことができるようになるための方法にほかならない。たとえ、言葉をつぎつぎに述べてみた結果、論及の過程全体が長すぎたものになるようなことがあっても、この言葉に耳を傾ける者にその真理の発見力を高めて〔plus inventif〕やるようなものであるなら、そういう論及はおおいに熱意を燃やすべきである」[Platon, Politique, 286 d〔『プラトン全集3』、288-289頁〕]。


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