記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画『砂の器』 (ネタバレ感想文 )実は結構な変化球映画

2003年以来の再鑑賞。大好きで何度も観ている映画ですが、年齢を経て観ると新たな発見があったりします。映画に限らず、良い作品とはそうしたものです。

一人の男の人生を遡る旅

日本推理映画の金字塔であることに異論はありませんが、「王道」かと問われたら疑問があります。私は、結構な「変化球」映画だと思うんです。

そもそもこの映画の話運びは、時間軸通りではありません。
最近では派手でキャッチーなシーンを冒頭に挿入して観客の興味を惹くことも珍しくありませんが(特にドラマに多い)、この映画はいきなり地味な「空振り捜査」から入ります。
また、見落としがちですが、この映画、殺人シーンもなければ逮捕シーンもありません。もちろん、安い2時間ドラマにありがちな「犯人の告白(崖の上で)」みたいなものもありません。

観客は早々に犯人の目星がつくでしょう。この映画は犯人当てが主軸ではないのです。ところが被害者の顔は出さない。なかなか出さない。本当に終盤、やっと被害者の顔が観客に明かされます。私の体感では(体感かよ)犯人は冒頭15分くらいで登場するけど、被害者は2時間くらい経たないと出てこない。
そして怒濤のクライマックスは、思っていた以上に長い。50分以上ある。実に本編の3分の1以上かけて「謎解き」をする。

この映画が解き明かす「謎」は、誰が犯人か?ということではありません。
犯人の動機、否、一人の男の人生を解き明かすのです。

ああ、そうか。わざわざ秋田まで無駄足するシーンから始まる意味にいま気付いた。
「結論から最も遠い(無関係な)場所」から始まる「一人の男の人生を遡る旅」を意味していたんだ。
つまりこの映画は、(時間経過の順序ではなく)遠くから次第に核心へ近付いていく構成になっていたのです。
恐るべし橋本忍。
私は、秋田からの帰路の列車内で和賀英良を見かけるのを「偶然が過ぎる」と思っていたのですが、彼の人生を巡る「旅」の物語だと考えれば、構成として「必然」だったと言えます。

物語の語り部は「神」

あらゆる物語には語り部が存在します。「誰の視点で語られるか」と言い換えてもいい。
ミステリーの場合、刑事や探偵といった謎解きをする人物の視点で語られるのが普通です。観客は片平なぎさと一緒に情報を知り、船越英一郎と一緒に犯人にたどり着くのです。
ところが出来の悪い2時間ドラマはこの視点がブレるんですね。突然犯人視点の描写が始まったりしちゃう。それは誰が知り得た情報なんだよ。我々観客にどういう情報を与えて、どう思ってもらいたいんだよ。
実はこの映画もそれをやるんです。
突如、加藤剛と島田陽子の描写になってしまう。しかもおっぱいポロリサービス付き。

ですがこの映画、実は最初から刑事視点で描かれてはいないのです。
「捜査は難航したウンヌン」「事態は思わぬ展開をウンヌン」テロップで話が進みます。つまり登場人物以外の第三者、いわゆる「神視点」の俯瞰で物語が語られているのです。
だから、映画最後に再び「親子という宿命ウンヌン」テロップが出てきても「それは誰が言ってんの?」「何様?」ということにはならない。
むしろ加藤剛の描写を早々に入れることで、「この映画のテーマは、犯人探しじゃなくて人間ドラマですよ」と言っているのです。
(文学的には「登場人物が語り部」となるのは意外と近代からなんだよね、ということを書き始めると長くなるのでやめます)

ここまでしばしば2時間ドラマの悪口を書いていますが、これ、松本清張の功罪なんですよ。
ドラマ「ミス・シャーロック」の感想で長々書いてますけどね。

簡単に言えば、低俗と言われた「探偵小説」を文学の域にまで高めたのは松本清張の功績です。しかし1960年代に巻き起こった清張ブームのせいで、劣化版コピーが氾濫してしまいます。結果、崖の上で犯人が悲しい過去を告白すればOKみたいな風潮が出来上がってしまったのです。2時間ドラマはその成れの果て。

怒濤のクライマックスを語りたい

上述したように、映画全体の3分の1以上、約50分もの時間をかけて「謎解き」を行います。
「捜査会議」「コンサート会場」「回想」の3つのシーンが交錯するんですが、これねぇ、結構難しいと思うんですよ。3つもシーンがあると観客の興味の対象が散漫になっちゃうから。
この3シーンが一点に収束していく様は本当に見事。

ポイントは「回想」。

捜査会議で、日本のチャールトン・ヘストン丹波哲郎が大演説を繰り広げるじゃないですか、カンペ読んでるくせに。
この丹波哲郎が語る「回想」が、加藤剛自身の「回想」となっていく。
(しかもコンサートはBGMとして機能している)
映画として、めちゃめちゃよく出来てる。
しかも丹波哲郎が語りながら涙を零すんです!カンペ読んでるくせに。

私はこれだけ『砂の器』大好きなくせに原作は読んでいないのですが(<読んでないのかい)、どうやら原作は、クラシック音楽の作曲家・ピアノ演奏家ではなく、ヌーボーグループとかいう前衛音楽の作曲家・シンセサイザー奏者なのだそうです。つまり冨田勲。
我々ファンは「MJ」と呼んでいるみうらじゅんによれば、原作は「ヌーボー(新しい)と過去の対比」なのだそうです。そしてMJは、「映画はクラシック音楽にしたことで普遍性を得た」と言っています。
たしかに、普遍性を持たせたことで、「親子」「宿命」という普遍的なテーマが生きてくる。

どうしてもこうした構成をはじめ、橋本忍(プラス山田洋次)の脚本に注目しがちなんですが、川又たかしの撮影もいいんですよね。今回リマスター版で鑑賞して改めて感じました。
正直、野村芳太郎の特徴とも言えるビヨーンっていうズームがあまり好きでなかったんですが、CGも無く撮影機材も軽量化されていない時代に、これだけの撮影をしていたことに改めて感動します。

もしかすると、日本の四季を通して撮影した映画ってこれが初めてじゃないかな?
今はもう故人ですが、知り合いの映画学の教授が海外に日本映画を紹介する際は必ずこの映画だったことを思い出しました。いまやっとその理由が分かった気がします。

告発したのは一犯罪だけではない

この話、何度もドラマ化されてるんですよね。私も(原作も読んでいないくせに)そこそこ観てます。仲代達矢×田村正和版(77年)とか、渡辺謙×中居正広版(2004年)とか。調べたら2011年、2019年もドラマ化されてるようですね。時代設定とかどうしてるんでしょう?松本清張って「社会派ミステリー」と言われますが、社会派って時代とリンクしてるんですよ。時代設定の変更にも限界がある。戸籍の件とかどうしてんのさ?

そして何と言っても、らい病(ハンセン病)の扱いです。
その後のドラマでは一切扱われず、「貧しかったから」「殺人犯だったから」「村八分にあったから」など、無理矢理「親子放浪の旅」の理由を創作しています。

違うんだよ。必要なのは放浪の理由じゃなくて「殺人の動機」。

この病気、外見が醜くなることなどからひどく差別・迫害されたのです。
日本では1907年(明治40年)から隔離政策が行われ、1963年(昭和38年)に強制隔離の廃止が国際的に提唱されたにもかかわらず、日本ではこの映画が製作された1974年(昭和49年)でも改善されないまま、実に1996年(平成8年)まで患者を隔離し続けたそうです。
さらに、患者が子孫を残さないように断種手術まで行われていたと言われます。遺伝するという誤解や偏見があったのでしょう。

だからこの映画で、加藤剛が「子供は絶対ダメだ」と島田陽子に堕胎を強要するのは「婚約者がいるから」などというチンケな理由じゃないんです。
婚約者の山口果林との結婚も望まないのは、自由を愛する芸術家で、本心は島田陽子が好きだからじゃないんです。
「この世に生まれてきたことが宿命だ」という言葉の意味は、想像以上に重いのです。
この言葉、山口果林は「希望」ととらえたようですが、加藤剛にとっては「宿命=呪縛」だったように思います。
殺人の動機は、後のドラマ版の創作のように「過去を知られることを恐れた」からではなく、「今ここにある迫害の危機」を恐れたからです。
そして(結果として)スーパー刑事・丹波哲郎は、一殺人事件の犯人ばかりでなく、差別や偏見を助長した隔離政策という「国家犯罪」をも告発したのです!

ご清聴ありがとうございました。

監督:野村芳太郎/1974年 日

(2022.01.15 CSにて再鑑賞 ★★★★★)

この記事が参加している募集